日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか 内山節より その1

群馬県上野村の私の畑でも種まきからしばらくして
芽が伸びてくると間引きを行う
1番丈夫そうな1本を残して、他の2,3本を抜く

それは私にとってはかなりの苦痛な行為であり、
その苦痛さを他の村人も感じている
なぜ苦痛なのか。
それは間引かれる側も、生を全うしたいだろう
ということがわかっているからである

作物を育て食べるだけなら問題はない。
自然の生き物も草や葉を食べて生きている
しかし自然の生き物は、
自分に都合の悪い育ちの良くないものを、
あらかじめ間引くようなことはしない

間引きとはあくまで人間だけがする行為である。
しかもこれは育ちの良くないものは生きる資格がない、
という思想に貫かれている。
自然界に対してそういう態度をとるなら、
人間界に対しても同じ態度をとらなければ平等ではない。
しかし人間に対して育ちの良くないものは
間引くという思想を適用したら
かつてのナチスの優生思想のようになってしまい、
当然そういう思想は否定されなければならない

だが、それなら、人間に対して行ってはいけないことを、
なぜ植物に対しては行ってよいのか
間引きをしながらその問題性を感じ、
しかしそうしなければ満足な作物はとれないと間引きをする

とすると満足な作物とは何なのか。
なぜ満足な作物をとらなければならないのか
そこにはやはり自己を持った自分自身があるはずだ
そんなことが想起されてくるから間引きは苦痛になる

畑仕事をしていると、石に感謝することがある。
特に真夏に種まきなどをすると、晴天続きで
雨不足のときなどは芽がよく育たないときがある。
そんなときでも小石の脇に出た芽は結構育つのである

なぜなら石の下は水分があって、
そこに向かって根が伸びるからである
こういう天気のときはミミズなども石の下で暮らしていて、
石が畑の生き物を守っていたりする
そんなときは石に助けてもらっているとも感じるし、
石もまた結び合う自然の生命世界の一員だと気づく