「大坂冬の陣」

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回)の第3回講義の報告です。
・日時:3月17日(火)am10時〜12時10分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:大坂冬の陣
・講師:天野 忠幸先生(関西大学非常勤講師)
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[関係年表]
・1598年(慶長3):秀吉、死す(享年62)。秀頼(満五歳)が家督相続
・1600年(慶長5):関ヶ原の戦い
・1603年(慶長8):家康、征夷大将軍。江戸に幕府を開く。秀頼・千姫と結婚
・1611年(慶長16):秀頼・家康、二条城の会見
・1614年(慶長19):方広寺鐘銘事件(7月)、大坂冬の陣(10月〜12月)
・1615年(慶長20):大坂夏の陣(5月)

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1.豊臣家と徳川家(豊臣政権下)
徳川家からみた『大坂物語』
・徳川家の言い分…「茶々が秀頼を溺愛して育て方を誤り、豊臣家が滅びた。また、おね(寧)と茶々は対立していた。」

・豊臣秀頼の実像…茶々は、公家(学者)・清原秀賢に依頼して秀頼に帝王学を教授。(*右の資料:秀頼(8歳)自筆の「豊国大明神」を主要な寺社の贈っている。「豊国」とは、豊臣から取ったのではなく、(豊)葦原 瑞穂(国)(日本国)を意味する。また、左側の秀頼画像を見ても、しっかりした顔をしている。)
・おねと茶々は、対立をせずに、役割分担【おね:在京、朝廷との交渉(秀頼を関白に)。茶々:在坂、秀頼の養育。】
徳川家は、豊臣家の親類
・家康…秀吉の妹・朝日は、家康の正室。
・結城秀康(家康の次男)…秀吉の養子。「秀」の偏諱
・徳川秀忠(家康三男)…茶々の妹(お江)の夫、「秀」の偏諱

2.五大老・五奉行
五大老(名誉職):徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行(実務):石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家
(問題点)
・家康、大名との婚姻の密約問題(秀吉生前に取り交わした誓詞−内々の「私婚」は禁止。大老筆頭の家康がみずからこれを破る)
・前田利家の死(政治的バランスが崩れ、政情は不安定)
・石田三成の失脚(加藤清正・藤堂高虎ら武功派の諸大名、文治派の三成襲撃事件)
・上杉景勝が帰国。利家の跡を継いだ前田利長も帰国。
◆家康は江戸に帰らず、天下のことを考えている。家康は、諸大名の信用を得ていく。

3.関ヶ原の戦い(慶長五〈1600〉年9月)
・上杉景勝が無断で領国(会津)へ帰った。→景勝への上洛命令(家康の要請)(表向きは、五大老としての職責を果たせ)→会津征討軍(秀頼の代理人として出陣する家康)…石田三成挙兵の誘い水。
・総大将(東軍)徳川家康 (西軍)石田三成・毛利輝元
・家康(東軍)勝利の要因…①兵は神速を貴ぶ(”毛利輝元出陣せず”−情報戦に遅れる。9月1日に大軍・補給部隊を率いる家康の西上情報を輝元が得たのは9月14日)②豊臣系大名(福島正則、池田輝政、黒田長政、浅野幸長、小早川秀秋)の活躍。
○家康の課題
・徳川秀忠隊の遅参、軍功なき徳川家臣
・徳川対豊臣の戦いではない。家康東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしているわけではない。
・家康の領地宛行状の発給を伴わない領地配分…関ヶ原の戦い以降も、家康の立場は、依然として豊臣政権下体制における大老として、秀頼の補佐役政務代行にととどまっていた。

4.大坂冬の陣(慶長十九〈1614〉年10月〜12月)
関ヶ原の戦いの後
・西国方面を中心として、豊臣系大名が領土の大半を領有。大坂城には、秀頼が摂津・河内・和泉を直轄領として領有しつつ存在する。
・毎年の年賀には、豊臣系大名、戦国以来の大名、勅使、親王・公家は、大坂城に下向して秀頼に参賀。
・世間の認識…秀吉の遺言「秀頼の成人まで家康は後見せよ」
・家康は、秀頼を諸大名と区別して遇している。→江戸城の普請に際し、秀頼には普請役を賦課していない。諸大名から誓詞を徴収しているが、秀頼は除外など。
家康の不安
・自身の高齢化、秀頼の人気、秀頼自身の成長
☆「二条城の会見」(慶長十六〈1611〉年)…家康は、庭まで降りて秀頼を出迎えるという最高の礼遇で迎えている。
◆「方広寺鐘銘事件」(慶長十九〈1614〉7月26日)
・鐘銘の中の「国家安康」、「君臣豊楽」が問題。特に、「家康」の名乗り字(諱)を用いることは倫理的に問題。→これが、徳川家にとっては、願ってもない機会の訪れ。
・家康との妥協策に活路を見出そうとした片桐且元は、家康の分断策もあって大坂方の中で孤立し、ついに10月1日大坂城を一族をひきつれて退去し、自身の茨木城にこもる。→大坂冬の陣の勃発。

冬の陣の実態
*右の「禁制」を参照…冬の陣の「禁制」は10月に集中。〝平野地域は栄えていた”−徳川家康と豊臣秀頼の両方からもらっている。(「禁制」とは、武家に特権を保証してもらうもので、希望する保護内容【兵隊の乱暴、放火、麦・米を刈り取り、の禁止など)】を書いてもらい、礼銭を支払う。)
■実際に両軍の衝突がはじまったのが、11月19日「木津川口の戦い」−蜂須賀至鎮らの奇襲によって奪取。緒戦から東軍が有利。
■大坂冬の陣最大の戦いといわれたのが、11月26日「鴫野(しぎの)・今福の戦い」。西軍の後藤又兵衛・木村重成らが大坂城を出てそこまで駒を進めてきたのを、東軍の佐竹義宣・上杉景勝らの軍勢が撃ったもので、勝負がつかないほどの激戦。
■引き続き、11月29日「博労淵・野田・福島の戦い」で東軍側が完勝したため、大坂方は大坂城に追い込まれる形になった。
■12月4日「真田丸の戦い」では、東軍は大敗。⇒城攻めを断念、大砲による砲撃作戦に限定。…やがて、大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽きはじめ、家康は和議を提案。
◇和睦条件…惣構・堀の埋め立て、二の丸・三の丸の破棄(徳川方の謀略ではなく、当時の意古文書では、豊臣方も合意)。
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**おわりに**
豊臣と徳川の20年戦争…徳川家が公儀として全国の大名に認められるまで20年かかっている。天下人は勝っただけではなれない。正当性をみとめるられるまで時間が必要である。