昨日5月1日(金)。
いつもの『一日参り』で
奈良県桜井市の大神神社(三輪大社)に行きました。
祈祷殿の畳が新しくなっていて、
しかもいつもは閉めっぱなしの窓が全開で・・・
とっても心地良い風が入ってきまして、
いつもにも増して清々しいご祈祷を
受けることが出来ましたぁ〜(^^)♪
例月通り、ご祈祷を受けて
さっさと帰ろうかと思っていたのですが、
たまたまパソコンを持って来ていたこともあり、
三輪大社の祈祷殿でパソコン開いて、
あれこれとお仕事を終わらせ・・・
五月晴で、何とも言えない心地よさがありましたので、
『三輪山』に登らせていただきました(ー人ー)☆
最初は快調、快調〜♪でしたが、
やっぱり、だんだんと身体が重くなり・・・
「ああ、わざわざ登るんやなかったヮ(ーー;)」と
一瞬後悔したのですが(笑)、
四国遍路磨きの『行者魂』がだんだんと目醒めて来て、
ゆっくり確実に、そして淡々と歩いてますと、
あれこれと冴えて来て、閃き、言葉が降りて来ました。
その言葉を以下羅列します。
①襲う(殺(や)る、攻撃する)人間は、
自分が襲われることを一番恐れているので、
襲われそうな人間には近づかない。
自分が襲われるということは『本能』でキャッチする。
襲うことは「拡大&征服欲」という煩悩の一種であり
また「防御本能」の一種でもあるからして、
それらは動物的(下部)本能が強い人間が囚われる傾向にある。
見た目は『人間』であっても、
中身はさかりのついたオスの『動物』である。
そのような奴らには、『人間の道理』は一切通用しない。
従って、そのような下部の動物的本能の強い人間に
襲われないようにするためには、
「目には目を 歯には歯を」で、
「襲うゾ」という『気』をこっちから送ってやればいい。
決して、弱気になって背中を向け逃げてはいけない。
そうしてしまうと、奴らは喜んで襲って来る。
みなさん気をつけましょう。
そしてそんなアホで哀れな奴らには強気で向かって行きましょう。
②私個人の価値観としまして、
滝行や座禅という修行項目はニガテであります。
とにかく、じーっとしている、また、
室内(ある一定の区切られた空間)での修行項目はニガテであります。
だから私は、華道・茶道、柔道・剣道・・・ではなく、
遍路・修験道を好んで実践している。
祈祷を受けている時や座禅を組んでいる時、
じーっとしている時に、
あれこれと考えてしまいます。
じーっとしているので、
正直、体力的にしんどくないし、
(っていうか、じーっとして何も考えないということが苦痛^^;
何も考えずじっとしている時間は寝ている時だけでいいと思っています・笑)
そのあり余った体力で、あれこれ考えてしまい、
身体はその場で行をしていても、
心は、違う場所や、過去・未来に飛んだりしています。
そんな感じで、心と体が違う場所にあっては、
悟りは開けません。
悟りを開く(真実を掴む)ためには、
『一点集中』・・・つまり、心身を同じ場所に置いて、
同じところに意識を向ける必要があります。
三輪山を歩いてますと、最初は元気なので、
「おなかすいた〜」とか「あの件、どうなったんかな?」とか
山歩きとは全然違うことをたくさん考えます。
が、だんだん体力的にしんどくなって来ますと、
あれこれ考える体力的ゆとりがなくなってきます。
ですので、あっちこっちに心を飛ばせず、
だんだんとその場所に意識(心)が向き始めます。
すると、身体と心のある場所が合一・一致しますので、
あれこれと閃いて、悟りが開けて参ります。
一方、ここで「ああしんどい・・・頂上はまだか?」と
グチばかりこぼしているだけでは、悟りは開けません。
「今、ここ」と意識を一点集中し、
しんどいという『負の感情』に心を囚われている
低次元の心の領域を超越しなければなりません。
人間が自発的に失敗する理由の根本は、
テキトーにする(一気呵成にやらない)、
無知(物事を成就させるための知識智慧を持っていない)、
そして負の感情(不安、憂え、妬みなど)に囚われることにより、
物事の「全容 〜ありのまま〜」が観得なくなるからであります。
しんどいという負の感情を
「当たり前やんね。山登ってるねんから」と客観的に捉えつつ、
しんど過ぎると、体力的に頂上まで行けませんので、
時々休みながらゆっくりと自分のペースで登っていますと、
だんだんと己自身の心身がそのお山(修行の道)に慣れてきます。
(=つまり、お山・修行の道と自分が一体化する)
そこまでの境地になりますと、しんどいという身体の状態は
変わらないのですが、心はふんわりと軽くなり、
誰か・何かがさりげなく、背中を押してくれているような感じで、
すーと登れてしまいます。
行き違う登り降りする人たちを観察しておりますと、
その殆どが「山登りの方法・コツ」というものを分からず、
余計なところでしんどい思いをして歩いておられます。
そのパターンは・・・
A.山登りにもかかわらず、靴や服装が山登りにふさわしくない。
また、『余計な荷物』を多く背負っている。
(つまり、余計な苦労を自らの手で招き、体力を消耗し、
山登りで得られる功徳を自らの手で削いでいる)
B.早くゴールしたい・頂上に行きたいと『焦り』、
自分自身の体力を超えたペースで歩き、途中でへばってしまっている。
(つまり、自分の煩悩・強欲により、余計な体力を消耗し、
山登りで得られる功徳を自らの手で削いでいる)
C.そもそも論として、『体力・実力がない』ために、
しんどい思いをしている。
(身の程知らず、己のことを知らない。
つまり他者のことも分からない。だから人間関係、そして人生が失敗する)
そのような方々は、山登りという方法ではなく、
もっと体力的にラクな方法を選択して、
悟りを開く道を歩まれた方がいいです。
D.時々裸足で歩く人を見かけます。
そのような方に共通していることは(勝手な推測ですが)、
正義感が強いのはいいのですが、自分自身に厳しすぎる、
そして他者にも厳しい・責め心が多い感じがいたします。
『遊び』がない。『ゆとりが無い』。
実は他者や“天”ではなく、自分自身で勝手に作り上げた
『正しいことは○○しないがから、○○しなければならない』・・・
という、「ねばならない病」にかかり、
自分が持つ知識を、自他を活かす・よりよくする方向に使わず、
「他者や自分のわるいところを指摘し、責める道具」として使っている。
人を責めるという行為は、一見わるい人わるいところを正す
のでいいと思われますが、
実は、責めるというものは「負の感情」ですので、
その負のエネルギーが自分に還ってきますので(因果応報)、
そのような心は行によって捨てる必要があるかと思います。
無知で愚かな他者、そしてそんな自分自身を許すという
広い、慈愛の心を育む必要があろうかと感じました。
また、正義感が強い・正しいことを早く極めたいと、
「自分の器」や、「時の運(時期)」をいうものをそっちのけで、
荒行に専念し過ぎている傾向にあるようです。
(結局自分の欲・煩悩に囚われているのです)
修行(人生)で得られるものは、
天の意志(時期)というものと、
自分の意志(願望)が合一した時に起こってゆくものだと
私は感じています。
たとえ自分自身の意志では、誠に不本意なものであっても、
今ある現状(苦難)や今気づくこと、そして今出会う人は、
今の自分にとって、「ちょうどよい」ものなんだということです。
人生は結局のところ、自分のスタート地点から
一歩一歩しか前に進むことが出来ません。
一段飛ばしとか、ワープして一気にゴールに近づくことは
浅はかで愚かな人間がすることであり、
飛ばしたところは「罪」となり、
結局そこまで戻って来なければならなくなりますので、
なんやかんや行っても、己自身を知り、確実に一歩一歩歩んでいる人が
早くゴールに到達出来るのです。
③挨拶をする人・しない人
三輪山で行き交う人たちに「こんにちは」と
挨拶をしています。
さすが、三輪さんの深い信仰者ばかりですので、
向こうから先手の挨拶を多数頂きました。
100人ほどすれ違いましたが、
数名だけ、こちらが挨拶しても返して頂けない方がおられました。
①一緒に歩いている人との会話が弾んで、
私の声が聞こえなかった
②あまりにもしんどくて、どうしようもなかった
これらに共通することは
『何か』に囚われていて、外部に気が周っていない
ということになろうかと思われます。
三輪山でのすれ違いの挨拶をする・しないは、
全くもってどうでもいいことなのですが(笑)、
恐らく上記の挨拶をされなかった数名の方は、
人生・日常生活においても、
一つのことにしか集中出来ない・・・また、
負の感情に囚われると外部環境への観察能力がなくなるという、
あまりよろしくない思考形態や習慣、性格のクセがおありのようです。
全てはひとつながり・・・全一統体ですので、
山登り=日常生活であり、人生そのものでありますので、
山登り(お山の修行)で得られることは即、日常生活にも使えます。
いる環境は霊峰であっても、娑婆の世界でも、
同じ人間がそこにいて、人生を歩んでいる訳ですから、
場所は違っても、同じよい面・わるい面が露出して来る訳です。
⑤「人間は囚われる動物である」
人間は、一度ラクを覚え、味をしめたら、
まず心が堕落し、次に言動が堕落し、
そして人間関係・人生が堕落してゆきます。
山登りをしておりますと、
切り株や岩にどっぷり座って、そこに根が生えていそうな勢いで、
どっしり座って「しんどい・・・もう歩きたくない」と
嘆いておられる方を見かけます。
私が、四国歩き遍路で得た確信的歩き方は、
「基本、座らない」という方法です。
常に自分の体力と相談しながら、
どっしり座りたくなる程にしんどくなる前に、休憩する。
小分けに休憩することにより、
大きな休憩をしなくて済みます。
一度、「ああしんどい」とどっぷり座ってしまいますと、
歩くのもいや、立つのもいやになって来、そしてやる気もなくなってきて、
休憩時間がどんどん長くなって来てします。
つまり、一度座ってしまうと、座るというラクな方法を知ってしまい、
立つ・歩くというしんどい方法を疎ましく感じて来てしまいます。
・・・悟りや幸福を得るためには、まず覚悟がいります。
「私は必ずや幸せになる」という確固たる信念であります。
何故ならば、真の幸福を得るためには、
必ず苦難・苦痛・苦悩という名前の、暗い狭き茨の道を
通らなければなりません。
ですので、何回もその道半ばで信念が折れそうになったりするので、
そこで覚悟が必要となって来る訳です。
覚悟がない人間は、この途中の道で
引き返して来てしまいます。
まさに人生の堕落者です。
そこそこの人生に安住し、
他者を羨んだり妬んだりするだけの人生で終わりです。
人間も含むこの大自然の法則としまして、
正しく進化・成長しない人間は絶滅してゆきます。
従って上記の堕落人間は、絶滅することを待つだけの
絶滅危惧種であります。
天というものは、時に残酷であり、
じわりじわりと「このままではやばいですよ」と
教えてくださればいいのですが、
ここ数年から、グローバル化&情報化社会により
この地球上のスピードはどんどん上がり、
ひと昔前の20年間は、今の1年に相当する・・・という
スピードになって来ていますので、
成功するスピードも上がっていますが、
絶滅するスピードも上がっていますので、
絶滅する要素を持つ人間はあっという間に絶滅します。
人生というものは、基本的には慈愛に満ちた
美しいものでありますが、
こんな感じで、時に残酷過ぎて、恐ろしいです。
だけど、人生とは全てひっくるめて「おかげさま」なのです。
・・・こんな感じで、
今回の三輪山でも、よい気づきを頂戴いたしました(ー人ー)☆
最後に、三輪大社に置いてあった冊子の中に・・・
「古くて古いもの、そして新しくて新しいものも滅ぶ。
しかしながら、古くて新しいものは栄えてゆく」
と書かれていました。
つまり、古いものをベースとして、
どんどん新しいものを作ってゆくことが、
この激動の時代・娑婆の世界で栄えてゆく方法である・・・
ということであります。
これを四字熟語で表現しますと「不易流行」だと思われます。
これからも私自身、
日本古来の古きよき伝統文化や宗教観を深く掘り下げながら、
新しい時代にふさわしい価値観・人生の創造を磨き高めてゆくことを、
確実に実践して参りたいと思いました。
今日からはいよいよ本格的なゴールデンウィークに入りますが、
私は人様が動く時期には動きませんので、
基本的に家で、じーっとひきこもっております(笑)。