「西国巡礼の拡がり」

(%紫点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月)の第8回講義の報告です。
・日時:5月19日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:西国巡礼の拡がり
・講師:上野 勝己先生(元太子町竹内街道歴史資料館館長)
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**前回の復習**
◆「西国三十三所巡礼の成立」(H26.11.4)
・(伝承)…養老二年(718)、大和・長谷寺の徳道上人の巡礼−閻魔大王に諭され、三十三ヵ所の巡礼。あまり普及しなかったので宝印を中山寺に納めたといわれる。
・(伝承)…永延ニ年(988)、花山法皇の巡礼−徳道上人が始めて270年ぶりに三十三ヵ所巡礼を復興したといわれる。権威づけのために、のちに作られた伝承で、花山法皇は、仏眼、性空、弁光らの高僧を伴って、那智山で修業したのち、西国観音霊場を巡礼したといわれる。
・(書物に記載)…11世紀末〜12世紀、三井寺の行尊と覚忠が巡礼。三井寺の僧の伝記をまとめた『寺門高僧記』に二人の高僧による三十三所巡礼記が収められている。巡礼の所要日数は、行尊は120日、覚忠は75日を要した。→行尊と覚忠によって、西国巡礼は現在のような形になった。

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(%エンピツ%)講義の内容
江戸時代の西国三十三所巡礼
都は京都でなぜ「西国」か…鎌倉幕府の成立後、武士が東国に移動、東国の武士による巡礼が盛んになり、坂東札所・秩父札所と区別するため、室町後期から江戸時代にかけて、「西国」と呼ばれるようになった。
巡礼ルート(右図を参照)…関東から来て、伊勢神宮を経て、熊野の「青岸渡寺」(第一番札所)から打ちはじめ、美濃の「華厳寺」(第三十三番札所)で打ち納める。終わって信州の「善光寺」へ詣でるのに、このルートが好都合で最短距離である。
・西国三十三所巡礼は、時間的(所要日数が約100日間)・経済的にみて一般民衆にはほど遠いものであった。…西国三十三所巡礼をささえていたのは、僧侶や武士階級で、修行として巡礼。

地域的巡礼地の形成(右の資料を参照)
時間的・経済的にみて、民衆に縁遠い西国巡礼が、江戸時代には、身近な地域的巡礼地が形成され、民衆に拡がり、根付いていく。
(1)河内国における地域的巡礼地
「楽な巡礼」・「溢るる功徳」・「河内巡礼」…河内一国のうちに三十三所観世音巡礼の霊場をつくり、日数わずかにて西国三十三巡礼する。
(2)河内国の郡巡礼地「石川三十三所」
・延宝元年(1673)に成立。郡巡礼としては最古である。
・石川郡(太子町・河南町・千早赤阪村全域と富田林市の一部)の東西6km、南北10kmの範囲内に三十三所の札所寺院。…二日間で巡礼。

三十三度行者の活動(右の資料を参照)
・西国巡礼の一派に三十三度という修行者がある。この派の規定として、「一年に三回、十一年に三十三遍廻礼(かいれい)」するので、三十三度といわれる。
・四人で巡礼する←(花山法皇の巡礼には、仏眼、性空、弁光の上人と都合四人連れであったと伝えられるところから)
・三十三観音のミニチュアを納めた背板(笈)を背負い、旅籠を利用せず、信者の家(宿とよばれる)を泊まり継いで西国三十三所観音霊場を33回廻る活動。彼らは、札所寺院での活動よりも、日々宿とする民家での活動−背板を開いて祭壇を組み、近隣の人々を集めて勤行する−を中心としていた。
三十三度 満願供養塔(碑)
三十三度満願すると、行者の出身地ではなく、施主の地元で、準備に3年前後の歳月をかけ、法事用の仮本堂も建てられ、法事は二夜三日間にわたって行われ、その近くに満願供養塔(碑)を建立した。…南河内・和泉・紀ノ川流域を中心に百余基確認されている。