縄文人と弥生人−その出会い−

(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月)の第11回講義の報告です。
・日時:6月9日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:縄文人と弥生人−その出会い−
・講師:森岡 秀人先生(日本文化財科学会評議員)
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(%エンピツ%)講義の内容
1.縄文時代から弥生時代への移行
これまで、弥生時代は日本列島で「米づくり」が始まった時代とされてきた。しかし、ここ二十年ほどの間に、埋没した水田や畑を発掘する技術が進むと縄文時代晩期後半の水田が発見。また、AMS法(放射性炭素C14による年代測定法の一つ)による分析で、水田耕作の伝播は、従来の説よりも300〜500年さかのぼる。(九州では弥生時代の始まりは紀元前800年、大阪では紀元前500〜600年との説)。今まで、短期間で縄文世界から弥生世界に移行したとされてきたが、「ゆるやかに移行」したと考えられるようになった。…今後も弥生時代の年代は、大きな検討課題。

2.縄文人とは? 弥生人とは?
【縄文人の特徴】…高顔(四角顔)、眉は濃い、まぶたは二重、ひげは濃い、耳垢は湿っている、身長は低い平均身長157cmなど。
【弥生人の特徴】…低顔(長円顔)、眉は薄い、まぶたは一重、ひげは薄い、耳垢は乾いている、身長は高い平均163cmなど。

3.縄文人と弥生人との遭遇
渡来系の弥生人とすでにいた縄文人との関係は、いたって平和共存であった。渡来系弥生人は人数が限られ、在来人がいないと弥生時代は形成されない。縄文人が水田稲作など弥生の文化を受け入れ、渡来系の弥生人(とその子孫)は、次第に縄文人のムラに入り込み、縄文人の子孫と、しだいに同化していった。
・渡来系弥生人は、突如として縄文人と入れ替わったわけではない。稲作とともに徐々に広がっていった。また、渡来系の集団と縄文系の集団が対峙していたのではない。数世代の間、併存して活発な交流があったと思われる。←北部九州の大友遺跡(佐賀県呼子町)、新町遺跡(福岡県糸島市)、金隈遺跡(福岡市)では、縄文人の特徴を持つ人骨(大友遺跡、新町遺跡)と弥生系の特徴を持つ人骨(金隈遺跡)が数十kmの範囲で見出され、地域性がある。
*右上の「弥生土器の誕生」絵図…朝鮮半島南部の無文土器から形や製作技術を取り入れている。土器を作る時の接合法が、縄文の内傾接合から無文土器の外傾接合へと転換したのは、渡来人が深くかかわった。

4.水田稲作の波及とその証拠
・北部九州にもたらされた稲作とその文化は、長い時間をかけて中国・四国から近畿・東海西部に伝わり、さらに東や北の地方にも広まっていった。
・弥生の文化(水田開拓、鋤・鍬などの木製農耕具、稲の穂を摘み取る「石包丁」などの水田農耕技術)は、渡来人によってもたらされた。
・遠賀川式土器が、九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標となっている。

(注)近畿地方の突帯文土器…突帯文(とったいもん)土器が近畿地方に多数出土し、土器片に籾圧痕も見つかっているが、この時期の水田が見つかっていないところから、本格的な水稲農耕の開始は、遠賀川式土器との共用期、いわゆる弥生前期前半(紀元前三世紀初めころ)に始まったと考えられる。
(注)遠賀川式土器…最古の弥生土器。壺、甕、鉢、高坏という器種から構成され、粘土帯の接合には、外傾接合を基本としている。この土器の存在が、初期の水稲農耕の九州から東への伝播の指標とされている。

5.弥生社会で何が変わったか
稲作が導入され、人々は定住生活をするようになり、土地や収穫物をめぐる争いが始まる。共同の労力、水配分などの利害調整、その維持管理、種子の保存など、水田を通じて首長(リーダー)が求められた。