今回の四国遍路修行についての感想(個人的雑感)を
徒然なるままに記してみたいと思います(^^)♪
以前もさらっと書かせて頂いたかと思いますが、
私が思う真の四国遍路修行スタイルとは、
『一人で遍路をすること(その究極は「歩き遍路」)』が
本来のスタイルだという価値観を持っています。
(※人それぞれ条件や価値観がありますので、正解は人それぞれ違います)
ですので、過去1〜3周目の四国八十八ヵ所のお遍路修行は
全て一人でお参りをしていますし、今後も一人でお参りを続けます。
それがなぜかと申しますと、私にとって修行とは、
自らの意志により、率先垂範して荒行に投身し、
正に自らの命をかけ、命がけで
自分対自分の真剣勝負をするというものだからです。
人様が一緒にいると、身の危険が無くなり
安全になって、心身がだれて来ます。
これは、日常の生活と全く同じであります。
同じだから、わざわざ四国まで行く意味がなくなります。
そして人様がいることにより、自らの『気(意識)』が散り、
自分対自分・・・ではなく、
自分対人様との修行になり、
自分自身の心の奥深い部分にある、真理(現在と過去(※ご先祖様含む)の徳と罪)を
心の表面へとえぐり出し、昇華(成仏)させることが難しくなるからです。
これも日常生活・娑婆の世界と同じであります。
人里離れた霊峰(修行場)で、
『一人』という誰にも頼れないという恐怖に対して、
戦いを挑んだり、喜んで受け入れて
「死ぬ時も、こうであろう。人は一人で死んで逝くのだから」と
生きながらにして死んでみるという
そのような生死を彷徨う荒行の、その奥の奥に、
「生」という名の「真理」が存在し、
それを掴むことがし得るのだと私は観ております。
そう思う一方で昨年、
フランスの映像作家・エミリベルトさんと出会い、
彼女の歩き遍路のドキュメンタリー映画の制作の
サポーターとして、彼女や彼女の知人縁者の方々と
4周目を一緒にお参りをし、
そこで出会った私の恩師(お遍路の師匠)であります
引田大先達に公認先達になるよう勧められ
ほぼ全ての手配をして下さり、なるご縁を頂き、
そしてこの度の5周目は、四国八十八ヶ所霊場会の『公認先達』として
何らかの理由並びに価値観で一人でお遍路出来ない・したくない方々の
サポート役や案内役としての新たなジャンルの
お四国修行の項目が加わった次第です。
この一連の修行の流れは、私にとって正に神業のように
自然の流れであり、それが絶妙で恐ろしいくらいです。
この世(顕界)とあの世(幽界)の境目に立たれ、
行き来(橋渡し)されている“お大師さん”が、
「この子には公認先達になってもらって、更に修行して貰おう〜♪」と
さらっと決められたような感じです(笑)。
私のようなマイペースが大好きで、一人&自由を愛し、
一人でいろんなことをやってしまう・出来てしまう人間にとって
数日間、誰かと一緒に何かをする・人に合わせるという修行は
一人で山篭り修行するよりもある種ハイレベルな荒行であり、
正直、苦痛・苦行であります(爆)★
しかしながら、この苦行に
自らの意志により飛び込むことによって、
観得てくる境地もあり・・・
そんなみんなと一緒に歩くという修行が
だんだん苦痛でなくなって来ますと、
娑婆の世界(日常生活)でも、
みんなであれこれすることに対して苦痛でなくなって来ます。
人と何かを一緒にする『コツ』として、
『自分を捨てること』ということが観得て来ました。
山を歩く時は、自分の歩くペース(スピード)を捨てる、
お参りをする時は、
自分の読経の順番やスピード、抑揚(リズム)を捨てる・・・
要は自分自身の思考や環境、クセ、価値観・・・全部を捨てて、
周りの人達に合わせ切るということです。
イメージとしましては、
自分の家の(電気の)ブレーカーを自分の意志で喜んで
一旦落とすという感じです。
ブレーカーが落ち、電気(自分の意志や感情)が
全部消えたところで(一旦、心を『無の境地』にする)、
周りにいる人たちの意志や感情に
自分の心&言動を合わせて行くという(ここで『空の境地』になる)感じです。
そうすると、バラバラに点在していたその周りの人たちの家々の明かりが、
まるで一つの大きなマンションの全室が
一斉にパッと電気がついて明るくなった感じになり、
みんなが一つとなって、『和』が描かれて行きます(=大和)。
自らの意志や感情を捨て切って、誰か(みんな)と言動と心が一致しますと、
1+1=2 ではなく、1+1=∞(無限大)になってゆく訳です。
一人の人間の力だけでは、大したことは出来ませんが、
こんな感じで、みんなが自分(小我)を捨て、
大我(和)に生きれば、一つの大きな力が生まれ、
世の中って一気によく変わってゆくのだと感じました。
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更に別のことを思いました。
この世界とは、空と空に浮かぶ雲のようなんだ・・・と
見上げたお四国の空を観て感じました。
雲は「顕界」つまりこの娑婆の世界(この世)であり、
空は「幽界」つまりあの世のことであります。
雲は流れ、コロコロ形を変えてゆきます。
私たち人間の心のようにコロコロ変わり、
同じであり続ける雲はありません。
また私たちの身体のように、また周りの物質のように、
どんどん老いては消えて行き、
また新たな雲(人・物)が生まれて来ます。
こんな感じで、雲はコロコロ変わって来て、
諸行無常であります。
しかしながら、よくよく観察してみますと、
「空(そら)」は一切変わっていません。
コロコロ変わっているように見えるのは、
雲(天気・気候・季節)と太陽のせいであります。
変わっているように見えていたのは、
自分の思い込み(感情)であり、無知な思考であります。
以上のような真理は、
恥ずかしながら、今回のお四国修行で気づいた次第です。
ほんと、見せかけの雲や太陽の光の有無で
空までもコロコロ変わっていると思い込んでました。
我ながら、自分の感情や思い込み、無知さのせいで、
真実がどれだけ歪められ、見えて、
間違った判断や行動をし続けているのか?
今日(こんにち)までの自分自身を大いに恥じた・・・と言いますか、
懺悔(さんげ)に近い感覚を覚えました。
・・・世の中は易不易であり、
雲のように変わることが「易」
空にように変わらないものが「不易」となります。
この空という「不易」というものの存在を
常に把握し、掴んでおかないと、
人生において中心軸(あるべき姿、真理)を見失い、
彷徨ってしまいます。
私自身、生まれた瞬間に既に頂いた「不易」に、
自分自身の長いようで短い人生において
自己努力(修行)によって手に入れた「不易」を足して、
真の幸福とは何か?真実とは何かを見極め
ぶれずに真っ直ぐ(実直)に、歩んで、そして逝きたいと
改めて感じた、お四国の空でありました。
目指せ☆『空(くう)』の境地です(笑)♪
写真1:「御自由にお休み下さい」 久万高原町の街角にて
(お遍路道沿いには、町の方々お手製のステキな休憩所が至るところにあります♪)
写真2:「揺るがない 心が決める 大師の教え」 八丁坂越えの遍路道にて♪
写真3:三坂峠→46番・浄瑠璃寺までの遍路道。里山風景が美しい♪
写真4:徳島県の吉野川サービエスエリアにて。
徳島ラーメン食券番号「88」が、お遍路さんとして、かなり嬉しい〜(*^^*)☆
写真5:同サービエスエリアにて。
「節約の時代です。遺ったお料理をお持ち帰りください」
ステキです〜(*^^*)☆