三輪さんにて、ふっと思ったこと【雑感】

7月1日(土)。

毎月1日の午前中は

『ついたち参り』と決めておりますので、

いつものように、地元氏神様と、奈良県桜井市の

三輪大社(大神神社。大和國一之宮)に

お参りに行ってきました。

ほんと、毎月毎月清々しく・・・

「嗚呼また今月も新たな気持ちでガンバロウ。」と

思うことが出来ます。

大人になりますと、なかなか「人生の節目」

というもの(機会)がありませんが、

こんな感じで、『毎月1日』という、

人生のちょっとした「節目」というものを

自らにつけて行くという人生も

なかなか味や奥深さが出てきて、結構いい感じです(^0^)☆

お参りに行く時はいつもマイカーで行っています。

片道1時間ドライブ・・・いろいろ考えます。

お参りに行くという意識(魂の)レベルがグッと

上がることをやりに行っておりますので、

考えることも結構高尚なことが多いです(笑)。

以下、よしこちゃんの雑感(たわごと)です。

正しいか正しくないかは読者のみなさまにオマカセいたします♪

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「なぜ“前世”の記憶がないのか」

・・・そのようなことを考えてみる。

肉体は一回きりの使い捨て。

が、魂(たましい)は輪廻転生を繰り返し、不滅だと言われています。

前世とか過去世とかあるという人がおります。

ホンマかどうか・・・

私自身はよく分からず、死んでからでないと分かりません(笑)。

だけど、「前世や輪廻転生はある」と思った方が、

この私の人生自体が、ケタ違いに輝かしい人生になるので、

私は「ある」という価値観を持っています。

「なぜ“前世”の記憶がないのか」

それは、今の人生に専念するため。

たましいの奥にやるべきことが隠れている。

「たましいの記憶」とは即ち

『無意識の中』(心の奥底)に全てが存在する。

今の人生において、必要に応じてそれが

『意識(意識レベル。心の表面)』に浮上して来る。

それが浮上する毎に、心のまま・・・

たましいのままに生きれば良い。

たましいには気が遠くなるような無限の

雄大な過去全ての記憶が刻まれており、

その時時に必要なものだけが、今蘇って来る。

不必要なものは浮上して来ない。

そんな無意識(心の奥底)と繋がっている(一つと成している)のが

たましいであり・・・

その時々に必要なものが、心がキャッチし、心の表面、

そして頭に蘇って来る。

逆に『修業(たましいの)レベル』が低い場合、

たましいの中に刻まれた、どうでもいい、

不要な記憶の方が心にどんどん投影されて来てしまう。

過去のたましいの記憶を

今の人生に正しく投影させようと思えば、

その間に存在する、自分自身の心を

すなおに一点の曇りも穢れもなく、美しくしておかなければならない。

鏡も表面を正しく磨いているからこそ、

ありのままを正しく映す。

ところが、鏡の表面が凸凹してたり、曇っていれば、

ありのまま正しく投影されないのと同じ。

そして歪んだ心により、

前世と同じ失敗を繰り返したり、前世より悪くなる。

そしてますます地獄に堕ちる。

人生とは即ち、肉体という容れ物を使った

たましいの錬磨(修業)である。

修業し、錬磨されレベルが上がらないと、

例え金持ちになり多くの人間が羨む贅沢な暮らしが出来ても、

たましいの練磨において、その人生は『完全なる失敗』となり、

たましいは地獄に堕ちる。

次この世に来る時は「罰」として

肉体の容れ物は虫か動物に逆戻り。

人間ではないかも知れない。

以前このブログにも書かせて頂きましたが、

見た目は同じ人間であっても、

大きく分けて3種類の見た目・人間が存在すると観ています。

つまり、人間における、たましいのレベルは

大きく分けて3つあるということになります。

①動物的ヒト

見た目は人間の姿形はしているが、中身はヒト。

つまり動物と同じ。

自己の快楽と満足だけを追求している。

何でもかんでも所有したがる・他人のものまでも貪る習性がある。

性的要素は、オスとメスの交尾の追求。『性の奴隷』と化している。

自己快楽&満足を妨げるもの・人は徹底的に排除。自己中心的存在で、

地獄に堕ちるしか道はなし。

②人間的人

普通の人。

怒涛の人生修業、真っ最中。

「あるべき姿」「今の自分」の対立に常に悩み葛藤し、

もがき苦しんでいる。①と③の間のレベルをフラフラと彷徨っている。

天国と地獄を彷徨う人間。

③神性的人間(神人合一の境地)

まさに神仏の領域。心身が大自然と合一し、澱み・穢れ・疑いがない。

与えること、世界&宇宙を祓い清めることに生きがいを求める。

損得ではなく、善悪(罪と徳)に生きる。

生きていながら天国にいる。

全ての人間は、

上記①〜③のすべての要素を持っている。

例えば、①20%、②70%、③10%など。

①が100%、③が100%という人間は

この世には存在しないようです。

人間である以上、この天国と地獄の間の世界(娑婆)での修行は

逃れられないようです。

で、この人生の修行において、

③の最高位の人間の度合いを

高めてゆかなければならないようです。

それが、本来のあるべき

人生修業の大まかな本筋・根本のようです。

ちなみに、以前読んだ本によりますと、

たましいは肉体がないと、

つまり「人間の形をした、たましいの器」がないと

修業を通して、たましいの練磨(レベルアップ)は

出来ないとのことです。

(つまり、魂だけで浮遊している存在は、修行が出来ないので、

レベルが上ってゆかないんだそうです)

ですので、例えば、この娑婆の世界(現実)が嫌で

苦痛から逃れたくて自殺をしたたましいが、肉体が自分から消えてから

「しまった、肉体がないので、レベルが上がらない、成仏出来ない!」

(※どうやら、自殺とは最大級の罪のようで、自殺者の多くが

ちゃんとした成仏が出来ず、彷徨ったり、死んだ場所に留まったり、

子孫等に供養を求めて来るようです)

と焦って、あたふたするようです。

供養とは、「供」に「養」うと書きますが、

そんな各種様々な罪を残して死んだ全ての先祖たちの罪を

今生きている子孫子孫の善行(徳積み・消罪)によって、

1つずつ消してゆく行為でもあるようです。

(もちろん、先祖に対する感謝、恩返しという・・・

先祖が遺した徳に対する祈り

【=心を合わせる、心・存在を一つにしようとする行為】もあります。

先祖の罪を消し、先祖の徳に報い、そして罪&徳全てに対して

感謝することが出来れば、先祖からの陰のパワー(お陰様の力)が

かなり凄いことになるようですね。そのためにも、供養は先祖のためであり、

そして私たち子孫のためのものでもあり、

そして先祖と子孫は一本の糸で繋がっている・・・というか、

『全て同じ』ということに気づく次第です。一種の悟り。)

ほんと、神仏の世界というものは、

先人たちのおかげで、いろんな書物や理論が既にひと通り揃っており、

正しく学べば学ぶほど、真理に近づき、それに基いて生きると

それが正しいという証明も出来る。

ほんと、先人たちの遺した正しいものは

理論的系統が凄くちゃんとしていて科学的・・・

っていうか、科学的という感じで、

今を生きる私たち人間には難解過ぎます☆

ほんと、「なぞなぞ」を解いているようなものですが、

これが結構面白い(笑)。

徳に感謝し 罪を懺悔し そして恩に報いる・・・

こんな感じで、ちょっとずつ、真理真実に近づけたらいいな。

・・・毎月1日。

月の始めの午前中に参拝させて頂けることの

有難さをかみしめて・・・

節目節目に過去を振り返り、

また新しい月(未来)を見通す、よしこちゃんでありましたぁ〜(%笑う女%)(%王冠%)