「菅原道真をめぐる問題」

・前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回)の第15回講義の報告です。
・日時:7月28日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:菅原道真をめぐる問題
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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**菅原道真(すがわらのみちざね)の略歴**
・承和12年(845)〜延喜3年(903)
・平安初期の公卿、文人、学者。代々学問の家。菅公(かんこう)と称された。
・877年文章博士、886年讃岐守(4年間)、中央政界に抜擢(890年蔵人頭、893年参議)、894年遣唐大使の廃止、899年右大臣、901年大宰府に左遷、903年没す。
・死後の怨霊と神格化。天満天神。
・『類聚国史』の撰修、『日本三大実録』の編集、『菅家文草』(道真の記した文章を編集)など。

学問の家「菅原氏」
菅原家のもとは土師(はじ)氏(土師氏のはじめは野見宿祢の系統)。祖父清公、父是善で代々学者の家柄で、文章博士を継ぎ、京洛には菅家代々の門人が多い。
・文章博士(もんじょうはかせ)…大学寮で詩文・歴史(漢文学、中国史)を教授した教官(9世紀末から菅原、大江氏が独占した)。
・菅家廊下(かんけろうか)…父祖以来の菅原家の私塾で、宮廷文人社会の中心となる。
早熟の才子(右の資料を参照)
*「月夜見梅花」(道真十一歳)(意訳)「月の夜に梅花を見る…月のかがやく光は晴れた日の雪のように明るい。月夜の梅の花は空に照る星かげに似ている。素晴らしいことだ。空には黄金の鏡のように月の光が、地上の園には白玉の花房から梅の香がかおってくる。」
*「臘月独興」(道真十四歳の時の作品)「…恨むべし 学業に勤むこと知らずして、書斎の窓の下に年華を過ごさんことを」と、勉強に励んでいた。

宇多天皇との知遇
−(藤原氏の摂関政治)
・877年…道真、文章博士となる。
・884年…光孝天皇(55歳)の即位。藤原基経の関白就任。
・886年…道真、讃岐守として四国へ赴く(890年…4年後の任期を終えて都に帰る)。
・887年…光孝天皇崩御。宇多天皇(21歳)即位。(宇多天皇は藤原氏の出身ではなく、朝廷を刷新しようとした。)
◆「阿衡の紛議」(887年)…宇多天皇は、藤原基経に対し「よろしく阿衡の任を以て卿の任とす」(橘広相起草)。→阿衡(あこう)とは中国で最高の位の宰相の意味で、”何もしないという役目”ということ。基経は「何もするなということか」と怒り、朝廷に出てこない。宇多天皇は前言を撤回−基経はもとの関白として政治を行う。(橘広相は失脚)。
・891年…藤原基経の死去。宇多天皇は菅原道真を登用(蔵人頭)して、自分の政治を行おうとした。

道真、遣唐使「停止」の建議〈寛平6年(894年)〉
右の資料は、道真が提出した諸公卿に遣唐使の進止を議定せられることを請う奏状…「在唐僧の中瓘(ちゅうかん)が商人の王訥(おうとつ)らに託してよこした状の中に、「唐の凋落」、そして従来度々の使節が途中遭難して唐に達することの困難など。…を述べて、改めて遣唐使派遣の可否を定められたいと申請」。→この意見によって、260年あまり続いた遣唐使は廃止となった。
・遣唐使を派遣する費用は、財政上できない情勢、また唐物の輸入は商船によって行われていた。

宇多天皇の退位と醍醐天皇の即位(897年)
『寛平御遺誡』 (かんぴょう ごいかい)…宇多天皇が譲位の際、醍醐天皇に与えた「遺誡」。…(内容)「時平は、年は若いが政治には熟達している。先年女のことで失敗があったが、それをとがめず、激励して公事(くじ)を勤めさせた。第一の臣であるからよく顧問に備え、その輔導を仰げとある。」、「道真は、深く政事を知る。新帝の立太子と即位について貢献もした。道真一人と相談して決めた。それから2年もたたないで、天皇の譲位の意見を抱いたが、道真はこれを諌止したのでやめた。寛平9年になって今年こそ意を遂げたいと道真にはかった。道真は今度は賛成した。」…宇多天皇は、時平と道真の両人に新帝の輔導を託した。→道真は右大臣、時平は左大臣。

道真の左遷(901年)
宇多天皇が譲位し出家すると、道真は急速に政界で孤立する。そして、901年、藤原氏の讒言(ざんげん)により、九州大宰府の大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、903年、失意のうち最期を遂げる。
・突然の人事異動…901年(昌泰四)正月7日 従二位。わずか18日後に、正月25日 大宰権帥に左遷。
・当時、家格(学者の家柄)を超えた道真の栄達をねたむ者もが多く、900年には文章博士三善清行(みよしきよゆき)の辞職勧告もある。また、道真は娘を斉世(ときよ)親王に嫁がせている(斉世親王は、宇多天皇の子で醍醐天皇の弟)。
・道真とともに5人の子供たちも土佐と駿河に流罪。
・「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(菅原道真)(京の都を去るときに詠んだ歌)

道真の復権と神格化(右上の資料を参照)
【伝説と事実】
−909年:道長の政敵であった藤原時平が病死(39歳)。
−922年:醍醐天皇の皇子・保明(やすあきら)親王死去。…道真を右大臣に復す。
−930年:6月内裏・清涼殿に落雷。9月、醍醐天皇崩御。
*道真の死後、多発した天平地異が道真の祟り(たたり)と恐れられ、太政大臣を贈るなど鎮魂を施される。朝廷は宮中に落雷するという前代未聞の事件を引き起こした道真の怨霊と雷神とを結びつけ、火雷天神が祀られていた京都の北野に、北野天満宮を建立することで鎮魂しようとした。後に怒りをおさめた菅原道真こと天神は、本来学者であったので、学問の神様として、信仰の対象となった。
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平成27年前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回)は、7月28日で終了しました。
講師の先生並びに受講生・聴講生の皆様に、厚く御礼申し上げます。
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