「五世紀の雄族・葛城氏の女たち」

(%紫点%)平成27年後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)の第1回講義の報告です。
・日時:9月1日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:五世紀の雄族・葛城氏の女たち
・講師:平林章仁先生(龍谷大学教授)
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**前回(第一回)の復習「五世紀の雄族・葛城氏の誕生」(H27.3.3)
五世紀にヤマト王権の内政・外交を主導し、天皇(倭国王)と並ぶ権勢を誇った葛城氏。一族の女性たちを次々に入内させ、天皇家の外戚となるも、五世紀末期ごろに忽然と滅亡した葛城氏。その滅亡は『古事記』『日本書紀』には記載がなく、「謎」とされる。…三回シリーズで古代豪族・葛城氏の講義。
・葛城氏(かづらきし)は、武内宿禰(建内宿禰)(たけのうちのすくね)を始祖とする古代豪族で、奈良盆地の南西に位置する金剛・葛城・二上山麓に広がる葛城地域を本拠に、倭国王権の執政官である大臣(おおおみ)として大きな権勢を誇った。
・葛城氏の祖とされる『紀』の葛城襲津彦(かづらきそつひこ)は武内宿禰と父子関係にあると伝えられる。
・葛城襲津彦は、『日本書紀』神功皇后から仁徳天皇に至るまで活躍したと記載。→朝鮮半島と外交関係を結び、ヤマト王家と深くつながり、大きな影響力をもった。

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(%エンピツ%)講義の内容
第二回「五世紀の雄族・葛城氏の女たち」
葛城氏の特色は、ヤマト王権の対外交渉を担ったこと、もう一つの特色は、天皇家の姻族(外戚)としての存在であった。天皇にキサキを入れる氏族には一定の傾向があり、何らかの規制があったようである。…奈良時代以前に、多くの女性を入内させた士族としては、葛城氏、蘇我氏、息長(おきなが)氏、和邇(わに)氏などが知られている。なかでも、葛城氏は五世紀を通じてもっとも多くの女性を入内させた氏族である。
応神天皇に葛城の野伊呂売(怒能伊呂比売((ののいろひめ)、仁徳天皇に磐之媛(石之日売)(いわのひめ)、履中天皇には黒媛(くろひめ)、市辺押磐皇子に荑媛(はえひめ)、雄略天皇にも韓媛(かんひめ)らをキサキに入れ、王家の姻族として不動の地位にあった。

磐之媛と仁徳天皇
仁徳天皇は、葛城襲津彦の娘・磐之媛を皇后とし、のちの履中(りちゅう)天皇をはじめ、反正(はんぜい)天皇、允恭(いんぎょう)天皇らをもうけたと伝える。
・磐之媛は、五世紀の天皇の母系系譜において祖に位置づけられる。
・磐之媛は、『記』『紀』が皇后・大后(おおきさき)と記している。
・磐之媛は、嫉妬深い皇后。→対等にふるまう皇后・磐之媛。当時の葛城氏の権勢が示される。以下は、それを物語る記事でもある。

** 『日本書紀』仁徳天皇三十一年条 **
「九月に紀伊国に出かけた皇后・磐之媛は、熊野岬で御綱葉(みつなかしは)を採取して帰ったきた。仁徳天皇は皇后の不在中に八田皇女を宮中に召しいれたが、それを知った皇后は大層恨み、採ってきたばかりの御綱葉を難波済に投げいれた。怒りの収まらない磐之媛は、天皇が待つ難波大津には停泊せず、淀川を遡って、大和(奈良県)に向かおうとした。…天皇の使者の説得も拒み、ついに天皇のもとに戻らなかった。」

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**あとがき**
○天皇のキサキの入内は?。
〈ヤマト王権の構造(階層)〉
「倭国王(天皇)・天皇家一族」−「(中央氏族)葛城氏・蘇我氏など」−「各地の氏族」
・近代以前の天皇は、複数のキサキを有しており、彼女たちは天皇家の一族内から迎えられただけではなく、古代には、氏族出身の女性も多く入内した。
・葛城氏は、五世紀を通じてもっとも多くの女性を入内させた氏族で、天皇家の姻族であった。(6世紀には蘇我氏が天皇家の姻族としての地位を獲得する。6世紀以降は、天皇家の一族から、キサキを入内。)
・5世紀の皇后「磐之媛」以降で、天皇家の一族以外の皇后は、奈良時代の藤原家出身の「光明皇后」(8世紀)までいない。