コンプレックスとは

ボクは、左目が悪い。斜視という。
今はあんまり気にしてないけど、以前はかなりコンプレックスだった。

実害は、単純に見た目の印象がよろしくないのと、
左目の視力だけやたら悪くて疲れやすいのと
両眼視というのができないので、3D映像が楽しめない。
実質的な問題なんてのはそんなもんである。
本人はそれが当たり前だと思ってるから
なんら不便は感じない。

しかし、
これは小学生のころなんかにはかっこうの「的」になった。
くやしい思いをするハメになる。
でも、違う。
ボクにとって決定的だったのは、親だ。
親が、理解を示さなかったことである。

目つきが悪いのを直しなさい、と
もちろん治してあげようと気持ちで言っているんだけど
けれど自分で意識できるものじゃないから、
どうしていいかわからない。

ボクはその理不尽さを説明したくて
原因を知りたくて、目の本を読みあさったりしたけれど、
結局のところ、ボクが一番言いたかったのは
家族の楽しい時間にいきなり怒りだしたりする必要があるか?
ってことだ。

団らんのごはん中とか楽しいときに急に注意されたりして
空気が悪くなると当然ボクはそれを自分の責任だと思った。
なんで怒られるのかわからないまま。
これは、惨めだ。

そこまでいう必要が本当にあるのかってことだ。
自分で体験できないことに対してなぜそこまで、
自信満々に注意できるのかボクはずっと不思議だった。

ここまでが、前置き。
ボクの中で「本当に必要なのか」は永遠のテーマとなる。
この発言は本当に必要か。
やさしさが、きびしさが、本当に必要か。
そんな基準でいろんな事を考える。

ボクにとって世の中で一番嫌いなものは
生活指導の体育教師なんかが
急にキレだしたりする「暴力支配を演じた指導」だ。
本当の熱い指導でもなければ、拘束する事に意味すらない。
いつもムカムカしていた。
「キレる子供たち」は、
その親を教育したアンタらが原因だ、と思う。

ボクはそんな左目で、そんな風に世の中を見るようになる。

なんだか、失礼。
なんか、ね
やっぱ心理のヒダにふれているのかな?