雑念・煩悩があるからこそ、人生〜人の道〜

『悟り』の反対の言葉は

『迷い』でしょうか。。。?

『悟り』とは、

全て(自分が「こうだ」と迷い無く一点に絞った状態に加え、

自分以外の他者

【他人の意思や、事象・環境・時代等の

人間以外の意思・・・所謂『天意』というもの】)の意思が

合致した状態なんだと思います。

一方『迷い』とは、自分の心の中に、

2人以上の自分がいる感じで、

「ああでもない、こうでもない・・・どうすればいいんや?!」と悩み、

心がさ迷い、魂が浮遊している状態で、

または自分では「こうだ」と一点に絞っていても、

周りの人間が「違う」と反対し対立たり、

人間全員が同意しても、状況や境遇が

思うように成って行かない状態にあり

「どうすればいいんや?!」と思い悩んでいる

状態だと思われます。

人生には常に『迷い』〜苦難〜の連続であります。

それが何故か?・・・

人間は不完全な存在だからです。

完全な人間は所謂『神・仏』という存在となり、

この娑婆にはほぼ存在いたしません。

(ごくごく小数ですが、人間のカタチをした

「生き仏様」「生き神様」が存在するようです)

不完全さを持った者(魂)が、魂を磨く(昇華・成仏させる)為に、

この娑婆に産み堕されたような気がいたします。

だからこの世の中・娑婆には『悟り』という

究極&真の幸福感はほぼ存在しなくて、

『迷い』ばかりが存在し、まさに【生き地獄】であります。

生きること即ち【苦行】であります。

人生=苦、それが当たり前であり、

「しんどい、苦しい、辛い」のが当然でありますので、

その真実を客観的且つ冷静に粛々と受け取めて、

悲観的絶望的な負の感情に

囚われることなく自らを律し

(これも天から与えられた試練の一環です)、

ただ一点、『悟り』という真の幸福への絶対境を目指し、

絶対的な希望を絶やさず(信念を貫く!)、

この娑婆での人生修業を精進して参りたいと考えます。

ただ人生修業において、苦しいことばかりでは、

何十年と生き続けることがしんどくなります。

そこで『天(カミ)』という存在は、

人間に『快楽』と『小さな悟り』という種類の

“小さな幸福”を、時々我々人間に

与えられるのではないでしょうか?

まず『快楽』とは、美味しい食べ物を食べた瞬間、

好きな異性と交わった瞬間、

欲しいものを手にした瞬間などなど、

人間の身体(脳を含む外部を被う“タンパク質”)の

欲求を満たした瞬間であります。

外部タンパク質の快楽が、心を幸福感へと誘うのです。

しかしながら、この外部タンパク質から

アクセスされる快楽・幸福は、『一瞬』の儚き感情の高揚であり、

すぐに消滅いたします。

その次に来る感情は「また欲しい、もっと欲しい」です。

人間はこの種類の快楽の追求に心が向いてしまうと、

煩悩が増幅し『アリ地獄』に陥り、

悟りの道(正しい道)からどんどんそれていってしまうので、

生命(タンパク質、身体や人間・子孫)の維持に関連した

欲求や快楽は『ほどほど』に止めておくという

【理性】を練磨するための修業も必要かと思われます。

それと同時進行で、

日々曲がりなりに生きておりますと『小さな悟り』を、

ちょこちょこと段階的に得て参ります。

『小さな悟り』とは、

真の悟りへの境遇へと向かう道が正しいということを

私たち人間に報して下さる

【気づき・メッセージ】のようなものであります。

人として正しいことを一つ一つ気づいて行き、

試行錯誤しながら実践として体言化して行き、

人生、そして魂にに落とし込んでゆくのです。

こちらの『小さな悟り』から得られる快楽は

外部タンパク質からではなく、魂から心へと波及してくる幸福感でありますので、

こちらの方の快楽は極限無く、「更に、もっと上を」と、

この娑婆での修業が終わりあの世に旅立つ時まで

貪欲に探求し高め続けなければなりません。

外部タンパク質(身体・肉体)は老いて朽ちて逝きますが、

私たち人間(=即ち【魂】)は、

死ぬ瞬間が最も魂が磨き高まり、

自己の最高のレベルに成っていなければなりません。

でないと、死んだ後に、所謂“あの世”で、

今の『生き地獄』以上のケタ違いの苦しみを与えられ、

その苦しみを緩和や除去をする為に、

今を生きる私たち(子孫など)に助けを求めて来て、

子孫の幸福(悟り)を相殺すべく、足を引っ張ったり、

見ず知らずの憑きやすい人間に依存し、

その人を地獄に引きずり落とします。

それは何故か?・・・

魂の練磨・修業は、“生身の肉体”が無いと出来ないからです。

つまり、この娑婆でしか出来ないのです。

だから身体の無い魂(死んだ人間)は、

子孫などに依存するしかないのです。

『供養』とは、罪を遺し背負ったまま死んで逝ってしまった

先祖の為に今を生きる私たちが行う行為であります。

先祖が成仏出来るように、

先祖のみたま(御霊、魂)に心を合わすべく日々生きてゆくのです。

と同時に、先祖に手を合わせ、心を合わす程に、

先祖から頂く“ギフト”は【おかげさま(御蔭様)】という「徳」であります。

別の言い方をいたしますと、

人間の意思(人意)を越えたところにある天意から与えられる、

【ご縁(よい縁)】でしょうか。

縁というものは、人との縁、物やお金の縁、

よい気づき・閃きというものなど、各種いろいろあります。

私は大宇宙・大自然が織り成すこの縁や徳から得られる、

有限な人間思惟を越えたのダイナミックな宇宙のシステム(法則)を、

何となく感じ、何となく確信を得、

そのシステム(流れ)に沿った人生の歩き方や

思考にシフトチェンジしてからは、

娑婆の多くの人間が陥っている『煩悩のアリ地獄』にハマらず、

逆の天の方向に向かって生きてゆけているという

手応え(小さな悟り)を、

おかげさまで日々感じております。。。(ー人ー)☆