ウチの大学に特別講師にきてた画家さんが
こんなこと言ってました。

「ぼくは、ひまで何にもする事がないときに、
どうでもいいような、まるとか、しかくとか、
ぐちゃぐちゃキャンバスに描いてるんですよ。
特に何にも考えずに。
だから、ああ、ボクは絵を描くのがすきなんだなーって
思ったんですよ。」

これは共感して目からウロコがボロボロと落ちたもんです。

以下、ボクの思う事ですが。
「自分」という世界の中で
他との優劣や、世の中やまわりとのスピード差を意識せず
そういったしがらみを削っていったときに
残る「素」の部分が
この場合「描く」っていうことだったわけだ。
例えば、それが「歌う」っていう人もいるだろう。

何かを目指したり、やる気とかそういうのは、
長い期間の中では当然のように
上がったり下がったりするもんだとおもう。
それに、普通は自分でそんな状態は意識できないと思う。

例えば、身近な人と自分の温度差とか
モチベーションの違いとか。
「自分の思い(想い)」とかそういうことは
どんなにわかりあえてると思っていても
”ちがう”のである。

でも、”ちがう”ということは悪くなくて
みんな「other」だと思いすぎてる、と思う。
これって「another」じゃないのかな?
違っていることは”もうひとつの考え方”なだけであって
どちらかががんばったり、さぼったり
勝っていたり劣っていたり じゃないのだ。

素の自分が何を求めているか、わかっているのなら
それは、とても幸せな事だと思う。

すれ違いや食い違いは
不安や軋轢を生むけれども、
じゃなきゃ、成長できないけれども
まったく違う方向を向いてるってわけじゃない。
多くの人は前を向いて進みながら
ぶつかっているだけなのである。
歩幅があうときもあれば、あわないときもあるよ。

例えば、歌う事の先をみつめるよりも、
歌ってみたら、先がみえてくるんじゃないのかなーって
言いたいのである。