集合性の三原理
国家や会社は社会ではなく、
家族や故郷もまた社会ではない。
社会とはあくまでも「人間が共に生きる現場」のことだ
それは、その中で役割・機能が果たされる「制度」や
生(活)に与えられた直接の顔見知りからなる「共同体」とは
原理を異にする別種の集合体だ。
そしてそのような社会を成す「個人たる人間」とは
役職ではなく私人でもない
それは「特定の誰々」でも「肩書き」でもなく
万人が持つ人間性を有する存在一般としての人間、
歴史的な表現をすれば人権を有する存在一般としての
人間なのだ。
この資格でこそ我々は、境遇や能力にかかわらず
平等な「一個人」として人間社会を成すことができる
実際、近代民主主義社会において、能力や出自によらず
あくまで『一人一票』が与えられるという根本原則は
おそらくここから導かれている。
このような社会と人間は、国家や家族の前提ではない。
我々が社会を成し皆同じ人間であるということは
およそ自明な事実ではないのだ。
いずれ説明するが、常識に反してそれは
意志的な努力をもって創造される事実なのだ。
というのも、すべての人が「個人」であり「人間」であるという
「事実」は、客観的に検証可能な経験的事実ではないからだ。
それは物質のように確認される事実ではなく
意志をもってそのように見なすことで初めて構築される「事実」なのだ
この点を見誤る時、我々は社会を失い、個人ではなくなる。
それでも、社会も人間も存在せずとも、国家や故郷といった
別種の集団は存在しうるのだ。
しかしその時、国や地域の諸問題は誤って「社会問題」とみなされ
永久に解決不能な「仕方の無い」問題として
我々の前に立ち現れてきてしまう。
さらには、人が自分固有の人生ではなく
他人の人生を生きることになってしまう
<道端にオオイヌノフグリが咲いていました>