「負けない」という生き方

先日より、随分前(10年以上も?)に購入し・・・

ほぼほったらかし状態だった

司馬遼太郎先生の

『この国のかたち』を今、コツコツと読んでいます。

司馬先生のご本は、

まるで無限の宇宙の中に散らばる塵を

一つ一つ手繰りで、たぐり寄せて、

一つの物体を形成するような感じで、

掴みどころがないようである・あるようでない・・・

途方もなく難しいものと感じられ、

私の器では一回読んだだけでは

到底理解し得ないものなのですが、

そんな葛藤の中で、分からないなりにも

一所懸命理解することに努めております。

今日・6日に読んだ箇所の中で、

司馬先生の本『坂の上の雲』の

主人公の一人『秋山好古』の、

日露戦争・日本陸軍の騎兵隊の根幹を成す概念が

【負けない】ということだと書かれており、

激しく同感し、また深い感銘を受けました。

これは秋山好古が

我が国日本人(先人たち)の智恵の中から

導き出した答えだと感じました。

・・・最近、

比較的エネルギーがあり余り、

その余ったエネルギーが“煩悩”によって

大なり小なり曲がっている人間が

「オレ(オレら)は【ナンバーワン】になる!」と決意し・・・

つまり「勝つ」ということにこだわり、動いております。

私は対立した相手(ライバル、同業他社など)を意識した

【勝つ】という言動に違和感を覚え、

直観的になるべく賢く

彼らの行動に関わらないようにしています。

私はどうも【勝つ】という言動は【罪】のような気がしてならないのです。

【勝つ】という心意気並びに言動は、正しい方向から1度でも狂えば、

おかしな方向(誰か・もしくはみんなを不幸にするエネルギーになる)に

行ってしまいます。

ひどい場合、自らのコミュニティのみが正義を化し、

更に神仏化し崇め奉り、

自分たちが「善」で、対立相手が「悪」であるという・・・上下優劣をつけて、

自らこそ唯一無二の最も優れた存在であるという【錯覚】に酔い、

そのコミュニティに属する人間を痴呆化させます。

神秘的精神主義は現実(合理的)主義の対極にある概念で、

その概念が我が国に蔓延り亡国した時代が

日露戦争後〜敗戦までです。

さすがにそのような亡国のようなことまでは行かなくても、

亡国に至る【種】を未だ我々日本人

(とりわけコンプレックスや虚栄心に苛われ易い男性)は内包しているようで、

自らの理性により、自らを正し律し続けなければならないと感じます。

・・・物事の捉え方は①陰、②陽、③ニュートラル(中庸)と

3つ存在するそうです。

人間は煩悩(主観、価値観、欲全般)があるために、

必ず①陰か②陽どちらかに偏ります。

例えば左・陽に傾けば、右・陰と激しく対立します。

我ら日本人は『和』という名前の陰陽両方を包括し

また超剋した『中庸』的観点を持つべしという心の在り方を、

既に千数百年前に見出だし、事あるごとに時の偉人たちが

提唱し続けて来ました。

和〜中庸〜を根幹とした国家を具現化したものが

『大和(やまと)』・・・

『大和朝廷』であり、我々『大和民族』であったのだと思います。

そんな大和政権発祥の地・奈良で、

昨日・5日、たまたま時間つぶしに入った本屋さんで

司馬先生のNHKテキストを発見&ゲットし、

一回目からテレビを拝見することが出来・・・

しかも既に『この国のかたち』を読み直している最中で、

しかも司馬先生が最も訴えたかった

「日露戦争後から大東亜戦争後までの『統帥権』の弊害』の箇所を

そのテキストをゲットする前日に読み終えていたので、

司馬先生が今を生きる私たちに何を訴えたかったのか・・・

何となく掴めたような手応えを感じといます。

こんなかんじで、我が人生に必要なものは全て、

時間と空間【悠久の時代】によって我に与え賜っているのだと、

実感致しました。

以上のような境地に達すると、

かんながら【随神 ありのまま】を全て受け入れる…

水が上から下に流れるが如く、

大河の流れに我が身の一切を委ね切り、

朗らかに天寿を全うすべきなのではないでしょうか?

司馬先生が小説に主人公にした歴史的人物に共通することは、

そのような生き方を貫き通した人間だったのではないでしょうか?

私はそのように感じて仕方がありません。

NHK Eテレ「100分 de 名著」 司馬遼太郎スペシャル
2016年3月 毎週水曜日午後10時〜10時25分(4回シリーズ)
再放送 翌週水曜日午前6時〜6時25分、正午〜12:25分

http://www.nhk.or.jp/meicho/