大阪・神戸→淡路島→四国・徳島へ入り、
国道55号線をマイカーでひたすら南下しておりますと
歩きお遍路さんがたくさん歩いていました。
どのお遍路さんも、汚れていない・すり減っていない、
初々しい・・・綺麗な遍路服(白衣)をまとっておられました。
顔の表情や歩き方などを観察いたしますと、
遍路道に“挑戦”している “戦っている”・・・
耐えて、耐えて、耐えまくり、
ひたすら我慢&忍耐という感じでした。
はい。
私もかつて35歳の時に、
この道を歩いている時(真夏でしたーー;)、
みなさんと同じ気持ちで歩いていました(笑)。
基本的に、お遍路さんは1番のお寺から
88番のお寺に向けてお参りされています。
これを「順打ち」と言います。
今年はうるう年で、「逆打ち」(88→1と逆方向にお参りする)すると
御利益が3倍あると言われている年回りですので、
今年は逆打ちのお遍路さんが多いです。
順打ちのお遍路さんにとって
この徳島は「最初の道場」なんですよね。
とにかく、訳ワカランまんま、必死で歩いている。
『頑張っている』。“頑”なに“張”っている。
裏を返せば『柔軟性がない』。
もう少し頑張れば、切れてしまう弦のようです。
各種自分の精神的な弱さや体力・実力の無さと葛藤し、負けそうになりながら、
「負けるものか、止めないぞ。最後まで歩き抜く・結願するねんや!」と
弱い自分・今の自分戦うから負ける・負けそうになる。
負けそうになるから戦う。
常に、永久に『対立』しかない、この娑婆世界の有り様を
この界隈を歩いておられるお遍路さんは体現されておられる感じがいたします。
しかしながらだんだんと
「道(遍路道・即身成仏への修行の道)を歩ゆませて頂ける」という
謙遜並びに感謝の念がわいて来ると、
人はやがて『対立』を捨て、もう一人の弱い自分・今の自分を理解し、和解され、
「ありのままの自分」を受け入れられるようになります。
すると対立状態がなくなり、合一し、自分の心の中に存在していた
2人の人間が強力な1人になります。
自分自身と戦うことを捨てることにより、
その他の人、現象、境遇全てをも合一・調和し、
道(=お大師さん・天の教え)と一体化していくこと(真理)を道で学び取り、実践し、
それを自らの日常(人生)において具現化し、
自分のものにしてゆく。
これぞ仏(真理真実)への道のシンプルな方策だと思います。
私の場合、1番(徳島)からずーっと歩いて、高知、愛媛まで来て、
愛媛の松山→今治へ向かう、今治街道のところで、
上記の「2人の自分が合一した瞬間」を体験いたしました。
愛媛〜香川という最終ラウンドに入ったお遍路さんは
お遍路の白衣はしわしわで汚れてきます。
だんだん貫禄が出てくるのです。
そして四国遍路道と一体化し、四国の風景と調和し、
頑張らずに、淡々と、そして朗らかに、マイペースで歩いておられます。
その有り様を例えるならば、美しい音色を奏でる、
ギターの弦でしょうか。。。?
適度な緊張感と、適度な弛緩(朗らかさ)が調和した状態です。
「人生のあるべき姿、ここにあり!」と
多種多様の困難を乗り越え、ゴールに近づく
お遍路さんを見て感じ、深い感動を覚えます。
・・・こんな感じで、
我が国で1200年以上継承され続けている、この四国遍路道は、
時代を超えた普遍的な絶対的真理が存在し、
それを求め、歩み続ける人には必ず、それが与えられるのです。
分かる人には分かる(歩む人だけが分かる)・・・
分からない人には、全く持って無意味・無価値な、
以上のような私の実感(体験)でありますが、
よくよく考えてみれば、日常生活自体が、
四国遍路道と同じなんですよね。
ただ違うのは、お四国の方が
「場所(お大師さんの信仰)の力」を借りて、絶対的真理に早く近づきやすい、
そして、お四国はお遍路さんにとっては非日常空間ですので、
少々失敗しても、日常生活には一切差し支えがないので、
思い切って大胆に、いろんなことに挑戦出来るという
ところかと思います。