人間の努力ではどうしようも出来ないことがあると気づく瞬間

現代の文明(科学技術)が発展した

先進国・日本で暮らす私たち日本人は、

科学技術で全ての悩みや問題を解決すると

多かれ少なかれ思っている節があります。

一方で科学的根拠のない

また科学技術で証明出来ない・・・

つまり理論理屈で一から十まで論ずることが出来ないことは、

正しいことではない・偽りであると

認識していることも多かれ少なかれあります。

とりわけ目に見えないもの。

五感を越えた感性(霊性)でしか分からない分野のものに関しては、

【目に見えない=存在しない】という図式が

頭脳に蔓延っている人も多かれ少なかれ存在します。

戦後のGHQの「日本人骨抜き政策」に

まんまと引っ掛かった私たち日本人は、

科学技術の発達と共に益々、

本来私たち日本人が大切にして来た

「五感を越えた感性(霊性)」を捨て続けて来ました。

これは私たち日本人が神代の時代から

大切に継承して来た日本人としての根幹

(日本人たらしめているもの)だと、私は認識しております。

感性並びに霊性に付随する各種信仰(神仏的絶対的存在)も

【目に見えないものはないし、信じない】と一蹴し、

モノカネという目に見えるものだけに執着するようになりました。

確かに戦後、国土が焼き野原になり、

「なんと残酷なんだ!神も仏もこの世にはいない!」と

神仏を恨んだ人は結構おられたのかも知れません。

・・・科学技術が人間に物質的な豊かさや便利さ、

快適さをもたらしました。

その恩恵を今の私たち日本人は受けています。

科学技術が人間を幸福にするという面も必ず存在し、

その事実を疑う人は誰もいません。

その一方で、人間の努力【自力本願】では

どうしようもないことがあると気づく瞬間があります。

人生において八方塞がり状態で、

ナンボ自己努力しても何してもどうしようもない大苦難が、

必ず“一回以上”は起こります。

一回以上の一回とは、【死】という大苦難です。

古今東西、どんだけ努力しても永遠に生命を

与えられている人間は存在しません。

この娑婆に生まれ落ちた人間はいつか必ず死ぬのです。

人生生きている間にいろいろな大苦難(試練)が起こるかと思いますが、

【死】というものが、唯一且つ最大の大苦難だと思います。

江戸中期から戦後までは、

お参りする人で賑わっていた四国遍路道ですが、

戦後しばらくは殆どお参りする人がなく、閑古鳥が鳴いている状態で、

88の寺院を中心に、存続の危機があったようです。

きっと全国の信仰・神社仏閣も同じような状況だったのかと思います。

が、やがて戦後の復興を遂げ、年齢を重ねた戦後の第一世代が、

マイカー&団体バス遍路ブームの波に乗ってワンサカやって来て、

これで一気に四国遍路道も息を吹き返したのだそうです。

今の私たちお遍路さんは、観光的要素、リフレッシュ要素、

そして自分探しや自分の悩みや身近な人の悩みを解決したいと思い、

このお四国の信仰の道を歩くようですが、

戦後復興第一世代の方々のお参りの仕方や意気込みは、

今の私たちと比べものにならない程に真剣で切羽詰まった・・・

強烈なパワーがあったように感じます。

自分の周りが焼け野原になり、身近な人がたくさん亡くなり、

自分自身も死にかけた・・・

戦争に負けて国家自体の存続が危ぶむまれた・・・

今の私たちには到底想像&理解の出来ない危機的時代を

生き抜いて来られた第一世代の方々の祈り・鎮魂のパワーは

とてつもなく大きかったのではないのか?と、

私は今、お四国参りをしながら、

そのパワーの“残り香”を感じながら

以上のように過去を推測し、

その底なしの切なさ侘しさ、そして有難さを感じています。

で、その第一世代がいよいよ

【自らの死】というものに向き合わなければならない年齢になって来て、

それでお四国のような信仰の場に第一世代が

一気に押し寄せたのだと私は見ています。

第一世代の方々は日露戦争が終わる頃から大正時代に生まれた方々で、

江戸時代(親世代)から続く古きよき日本の精神文化

(【科学技術】の対となすもの)の“残り香”を

感じ取っていた時代であります。

明治維新は日本国家の科学技術への開花であり、

裏を返すと、精神文化の衰退の始まりでした。

作家・司馬遼太郎先生は

「日露戦争が何故勝利したのか?

それは江戸時代の教育を受けて育った人材が

大人になり、その時代の日本を動かしていたから」

とおっしゃっていました。

つまり、我が国の・・・我が国また民族たらしめる・根幹部分を成す、

精神文化並びにそれに付随する我が国古来の信仰も、

明治維新から衰退は始まっていたのです。

しかしながら、現代と違い時代の流れはゆっくりですので、

その衰退を一般大衆がモロに受けるのは、

戦前戦後の時期のように感じます。

明治維新でどうして日本人は日本の精神文化を捨てたのか?

戦後GHQの日本骨抜き政策に何故まんまと引っ掛かったのか?

私はその時代を生きていませんので、本当の理由は分かりません。

ただ単に日本人がバカだったかも知れません。

だけどそれも違うような気がしています。

そうしないと、日本国家並びに日本民族自体が

この地球から歴史から消えて無くなってしまう程の

状況だったのではないでしょうか?

「身体売って、魂売らず」という状態だったのかも知れません。

・・・今の時代に生きる私たちは、正しいか間違っているか?

そんな二者択一論ではなく、

先人たちの過酷な境遇や、その中から選びとった選択や生き様を推測した上、

感謝をして、

先人たちが成し遂げられなかったことを

これからの時代に具現化すべく、精進すべきなのではないでしょうか?

・・・お四国参りをしておりますと、

以上のようにいろいろな時代の方々の【念】を感じます。

だから私個人の願いごとだけを必死でお願いするのがアホらしくなり、

最近は先祖供養と国家世界の平和安寧を祈願しています。

・・・とにかく、

人間は【死】という大苦難が自分にも間違いなくやって来る!

と分かった瞬間、

科学技術(人間の知性)という自力本願では

どうしようもないことがあるという

事実に気づき、お四国に縁のある方々が、

お四国を通して精神文化(神仏的存在の感性・霊性)を取り戻し、

知性と感性を一人の人間の心の中に合一・調和させて、

“ありのまま”を受け入れて、

やがて朗らかにあの世へと旅立ってゆかれるようです。

本来の信仰とは“ありのままを受け入れる”という

心を育む・取り戻すものだと私は認識しています。

「自分のガンを治したい」

「大切な人の病気を治したい」と願い、

お四国参りする人も多く、

中には本当に治る人もおられるようですが、

そんな奇跡も実は“ありのまま”の一部であり、

信仰の根本は“ありのまま”をすなおに受け入れて、

日々不足不満が一切なく、朗らかに生き、

そして逝くためのもの・・・

心のあり方を示したものであり、

それが私たち日本人が長い歴史の中で

育み守り継承して来た

「幸せな“いきかた”」なのではないでしょうか。