「豊臣秀吉はなぜ将軍にならなかったのか」


・日時:9月13日(火)午前10時半〜12時半
・会場:大阪府立狭山池博物館・2階ホール(大阪狭山市)
・講師:山田邦和先生(同志社女子大学教授)
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1.豊臣秀吉政権の本質
◇問題の所在…「秀吉はなぜ将軍になって幕府を開かなかったのか?}
◆秀吉は大坂幕府ではない。→秀吉の「武家関白政権」は、天皇の補佐役(関白)であり、その政権は天皇の都である京都におかれる。
◆幕府とは?…軍事政権。ただし地方政権ではない。中央政権を守ることが大前提である(天皇と中央の軍事警察権に責務を負う)。[(例)−鎌倉幕府・源氏は京都を守る。室町幕府・足利氏は京都を守る。]

★《信長はなぜ将軍に?》
・天正元年(1573):(7月18日)信長、将軍足利義昭を追放(京都の足利幕府の滅亡)。
・天正10年(1582):(5月4日)信長、「三職推任」。(朝廷より、.関白、太政大臣、征夷大将軍の三職を推任したが、明確な返答をしなかった。)→(6月2日)本能寺の変(信長・信忠自害).
★≪秀吉の天下統一≫
・天正10年(1582):本能寺の変。(6月13日)山崎の戦い(明智光秀、敗死)。(6月27日)清須会議。
・天正11年(1583):(4月21日)賤ヶ岳の戦(柴田勝家自害)。→秀吉、信長の後継者の地位を確立。
・天正12年(1584):小牧・長久手の戦。…秀吉と信雄・家康との戦い。勝敗は決しなかったが、秀吉は長久手の戦いで家康に負ける。
・天正13年(1585):(3月)紀州征伐。(6月)四国征伐。(7月) 「関白叙任」。
・天正15年(1587):(5月)九州征伐。
・天正18年(1590):(7月)小田原攻め。北条氏を討って関東平定。(8月)奥州平定。…秀吉の天下統一の完成

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2.秀吉はなぜ将軍にならなかったのか
◎「秀吉は将軍になりたかったが、なれなかった」説—(山田先生の推奨説)
秀吉は、足利義昭の養子になって、将軍になろうとした。(信長に追放されて備後の鞆の浦に滞在していた将軍・義昭に対して、秀吉を猶子(ゆうし)とするように求めた。→義昭に断られる。
**右の林羅山「豊臣秀吉譜」を参照(林羅山は、徳川家から命じられて編集。1642年頃に成立。)
(要約)「征夷大将軍を望んだ秀吉が、足利義昭に養子縁組をもちかけ、断られるくだりが、書かれている。ちょうどその頃、近衛家と二条家が争い、関白職は空席になっており、右大臣の菊亭晴季の斡旋で、近衛家を説得して、秀吉を近衛家の猶子にさせ関白職を譲らせた。秀吉は皆が仰ぎ見る最高の職の関白になった。」

「小牧・長久手の戦いでの敗北」が要因…家康を軍事的に屈服させられなかった事実。秀吉は方針転換。将軍とは、実力によって天下を支配するものの称号である。武力での撃破は困難とみて、武力に変わる優位性、支配の追及。→それには、官位昇進と天皇の権威を利用することであった。

《豊臣秀吉政権》
・天正13年(1585):(7月)秀吉、「藤原」に改姓。従一位昇任。関白叙任。(9月)秀吉、「豊臣」改氏。
・天正14年(1586):(2月)聚楽第の建設開始。(12月)秀吉、太政大臣。
・天正15年(1587):(9月)聚楽第の完成。
・天正16年(1588):(4月)後陽成天皇、聚楽第行幸
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**あとがき**
・武家政権も、結局は天皇・朝廷に依存し、それに補完される形でしか政権を樹立できず、全国の支配権を掌握できなかった。もちろん天皇も武家政権から自立していたわけではなく、政権樹立に手を貸すことで存立できたのである。
・1588年(天正16年)、秀吉は、関白政庁として新築なった聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぎ、徳川家をはじめとする列席の諸大名に天皇への忠誠とともに秀吉への忠誠を誓わせ、朝廷の伝統的権威を背景にして天下に号令した。
●「秀吉は将軍になろうとすればなれたのに、なる気がなかった」説は、学界では大勢をしめる。(「将軍任官拒絶説」−「天正12年(1584)10月、秀吉が四位大将兼征夷大将軍への任官を断ったという風聞」[多聞院日記(奈良興福寺・英俊著)…同時代に書かれた資料であるが、懐疑的。)