自分の自分探し 5

大学で働き始めて4年目。辞め時が来た。
ぼくは、たいていの事はマイナスに考えない。
よく、プラス思考って言われるけれど、そうじゃなくて
「マイナスに考えない」のである。
そうなったんなら、じゃあその方向でやりましょう、という事なのだ。だいたい、なんでこんな事になったやら、思い通りにいかないやら考えてる時間に次の手を打てるのだから。

8月、ユニバーサルデザイン全国大会というものが神戸で行われる。大学のプロジェクトにビジュアル担当として加わる。ユニバーサルデザインという言葉は正直いまでもピンとこないけれど、僕はこのプロジェクトの概要を聞いたときからずっと言ってみたい事があった。それは僕が中学生ぐらいのときからずっとずっと思っている事なのである。

僕らは、日常の中にある、出身や年齢や性別が違ったり、
病気や障害をもっていたりするひとたちの間の関係。
知らず知らずに先入観で捉えていると思う。
「構えて」いると思う。
それらをとっぱらって、できるかぎり同じ目線でコミュニケーションをとることはできないのか、ってことだ。
もちろん僕も出来ていないと思う。
でもみんな、泣いて笑って、おしゃべりしたり、飯食ったり
一緒なのだ。そんな中で、何か「構えた」気持ちで僕はこのプロジェクトを進めたくなかったのである。

僕は、いろんな関係が平らで、自然であってほしい。
同じようにいい事も悪い事もちゃんと評価されてほしい。
たくさんの人がいっしょに何かをしていく中で、
関係性は芽生えて、屈託なく笑えたり、衝突したり感動したり。出来る事できない事はあるにしろ、その関係性にはわけへだてはないだろう。

でも本当は僕の中にはもっとひねくれた気持ちが多かった。
僕が常に感じている不満。
義務教育でうけた理不尽な規則、理由のない強制
優しさやいたわりは道徳の本で教えるもんじゃない。
生きてると死んでないは違うんだぞ。
理不尽な怒鳴り声。うその笑顔。
押し売りのやさしさ。
「いい事をしましょう」と言うけど、
いい事の基準だれがせつめいできるというんだ?
ミサイルを打っておわらせる正義。
サービスという言葉。サービスという言葉にした時点でサービスじゃない。そんなの、当たり前にやってくれ。
そういうの、ほんとうにうんざりなのだ。

そんな考えで「even」というキーワードをだした
「even art project」というプロジェクト名が決まった。
よかったんだろうか…ま 気に入ってるんだけれども。

そしてあっという間に夏が終わっていく。
ある日、バンドでお世話になっているライブハウスからメールが来ていた。
よかったらお仕事のことで話しませんか、という内容。
ファイルなど抱えてその事務所へ。
どうやら僕のテイストは気に入ってもらえたらしく、
とんと拍子に「いろいろやっていきましょう」となり、
「ところで、写真は撮るんですか?」

「写真… 写真ね、一応、やりますよ。」

「あ、そうですか。わかりました。」
そして、何日か後
「今度オムニバスに参加するアーティストの写真を撮ってほしいんです」

「はい、わかりました」だめだ、返事が先にでてしまう。

写真…仕事で撮る事になってしまった…

女の子二人組のユニットの撮影をした。
いつのまにか今度はカメラマンだ。
写真の技術を問われると何とも言えないが、僕に勝算があるとしたら、
僕のキャラや経験でしかできないことをするだけである。
さいわい、音楽歴は長いし、バンドもやっているから話でもりあげて。
とにかく撮って撮ってとりまくる。
膨大な写真からチョイスして。あとの加工なら専門だ。
そうか、こういうやり方があってもいいじゃないか。
僕はひとつひとつ自分に納得していく。
でも、写真は緊張する。トイレがちかい。

10月、学祭がきた。
自分のバンドを連れてくる事にした。
最後の年だ。もう好きな事をしてやろうと思い
ダメな大人の見本をみせてやった。
ウチのボーカルがマイクスタンドを壊し、ボクがたくさん怒られた。

12月に入る頃、4年生が卒業研究と就職活動に煮詰まるころ。
ぼくも腹を決めかかっていた。
今さら会社では働けない、会社なんてイヤだよ。
この時期ぼくは、できるだけいろんな人に会うようにしていた。
そういうのがすきらしい。
いろんな現場で、いろんな事に関わることが、自分の方向性なのかも、と思い始めていたのである。
僕はいつも、じぶんの考えていること、やりたい事をとにかくいろんなひとに話す。そうなる自分の道筋を先につくってしまうのだ。そうやって、たいていのことが実現してきた。
やりたいと思う、じゃない。やるのである。

ミクシィを始めた頃、気になった事があった。
あのオーナーさんがいるような気がしていたのだ。
検索してみると、本当にいた !
メッセージ送るとすぐ、返事がきた。
「会っていろいろ話しよう!」というそのメールは本当に元気が出た。
そしてまた、お手伝いができることになったのである。
これをきっかけに僕のスピード感は急加速した。

同じ頃、3月にむけてeven art projectの活動をしていた。ゆめのはこ2006という展示会に向けてビジュアルを担当させてもらっていた。
この展示会を主催している方は絵画教室の先生で、夏の大会の時に声をかけていただいてからのおつきあいである。
この先生もまわりに活力を与える、魅力のあるひとだ。
Tさんの事務所にはいつも人が集まっている。

今は本当に、ひとに恵まれていると思う。
「選び間違い」は地獄へまっさかさまだ。
いくらカネをもらっても使われたくない相手もいれば、
無償でもいいから何か手伝わせてほしいと思う相手もいる。

仕事のやり方も、あのころの
「むちゃくちゃでもなんとかやっていけるペース」をつかみ始めた。
しかも今度は本当にいい人たちに育まれながら。

「ゆめのはこ2006」の顔合わせで会場に集まった時、
なんだか見た事のある人がいた。

ボクが合唱部と美術部のかけもちを相談した
中学校のときの美術部の顧問だったK先生である。
詳しく書かなかったけれど、K先生は風来坊のような雰囲気の、
なかなか変わり者で、中学校の先生ながら研究活動をしていたり、
当時はよくわからなかったけれど、むずかしいことをいろいろ話してくれた。
今考えるとうちの暴力統制中学校の中で正しい事をいろいろがんばっていたんだなあと思う。風当たりは相当きつかったはずである。

「K先生、僕のことわかります?先生も参加するんですか?」
と、感動の再会的な感じで興奮気味(10年以上会ってないのである)のぼくに「あー、ハタくん。」という感じの落ち着いた先生なのである。

大学は卒業式も終わり、ゆめのはこ2006が始まった。
今までもないが、学生を送り出すなんて思った事がない。いつも僕が大学に取り残された気分だったが、今年は一緒に卒業である。晴れて、今まで卒業していった子たちともダチである。
そして、あのときと一緒だ。そつなく、大学を辞め、そつなく個人活動がはじまっている。次の月の家賃なんてのも考えちゃいなかった。

そして展示会の中でK先生といろいろと話していて、
僕はふとこんな事に気がついた。

この先生がきっかけで、僕は絵を真剣に始めた。
と思ったらこの先生が音楽を勧めたので、音楽をやった。
音楽はバンドにつながった。バンドはデザインにつながった。

ずっと思いつづけていること。
evenな関係づくりはどこにあるのか?
すると福祉関係の仕事をすることになった。
そこでTさんと出会い、
Tさんと出会ったおかげで、K先生と再会。
それに巡り会えたのは、大学で働いていたからだ。

僕はコンピュータができなければ、
パソコン講師にならなかった。
講師を経験しなかったら僕はずっと話ベタで
コミュニケーションの下手なままだっただろう。
大学に職員としてもどってこなかっただろう。

つらかったけれど、あのどうしようもない一年がなかったら
オーナーさんと出会えなかった。
オーナーさんと過ごした時期がなかったら
僕はクリエイティブを取戻せなかったかもしれない。
自信をもって夢を追いかけよう、
目標にむかって進もうって言ってくれるオーナーさんがいたから、ぼくは最低な毎日から這い上がれたのだ。
そしていま、オーナーさんとも再会できた。

そして大学で働かなかったら、独立は考えなかった。
たくさんの学生に元気をもらったり、あげたりしながら
自分のやりたい事を真剣に考えられた。
ゼミの先生は、僕の中にあった「自分」を信じていいのだと、
まだぼんやりだけれど形として見せてくれた。

2度、勉強させてもらった大学。
僕の作品は、仕事は、
ファッションを学んだからつくれるのだと確信している。

何もかもがつながっていると確信。
自分が思わない方向にばっかり進んでいると思っていたら
本当は全部同じ1本につながっていたなんて思いもしない。

高校のときお世話になった声楽の先生は
卒業する時こう書いてくれた。
「センスは磨くものです。カッコよく生きよう。」

僕が、自分はセンスがないって悩んでいたから、
センスはもともとあるもんじゃなくて、
磨けるもんだと信じてなんとかやってきました。
後はカッコよく生きたいけど、
なんかどんくさいみたいで、回り道が多い気がする。

そんな今までの事をK先生に話していると

「かわらへんなあ、君はな、
そーいうドロくさいところがな、エエのや」

…ああそうか、なんだ。

ぜんぶ、きっとそーいう事だったんだ。

きっと、世の中のたくさんの人も、
そういう事なんだと
ぼくは思う。