「木簡からみた古代の交通」

・日時:10月11日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市 大樹先生(大阪大学准教授)
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「七道」(しちどう)
律令体制下にあっては、都と全国の国府を結ぶ幹線道路が設けられた。中央と地方の官吏の往来、中央からの政令伝達と地方政治に関する地方からの報告・連絡など、律令政治施行上の必要な公交通が発達した。
・646年「改新の詔」(駅馬・伝馬の設置)→701年大宝律令(詳しい規定が成文化)
*【七道】…西海道、南海道、山陽道、山陰道、東海道、北陸道、東山道
*【大路・中路・小路】…(大路)−山陽・大宰府からの道。(中路)−東海・東山。(小路)−北陸・山陰・南海・西海。
★西大寺旧境内の調査で、出土した木簡(奈良時代後期)(右上の資料を参照)
50㎝を超える長大な木簡の表面に東海道と東山道の国名を、また裏面には南海道各国の郡名をそれぞれ列記。(用途は定かではないが、文書作成のための心覚えなどの目的で作成されたと推測される。)
・留意すべき点…武蔵国が東海道諸国に含まれ、甲斐国が東山道諸国のなかに含まれている。陸奥に相当する箇所が「常奥」。東山道を「東巽道」と記している(「とうさんどう」ではなくて「とうせんどう」であり、後代の「中山道=なかせんどう」に通じる呼称と思われる。

駅制と伝制(駅伝の制)
駅制
・中央政府と国府を結ぶ道。緊急の行政命令の伝達が中心、また、.公文書や地方へ派遣される使者も使用した。駅鈴と呼ばれる乗用できる馬の数を示した鈴を携行。
駅家(うまや)は、30里(約16km)ごとに置かれ、駅馬は、大路に20疋、中路に10疋、小路に5疋が常備される。
・駅家には厩舎のほか、行人の宿舎・駅稲貯蔵などが含まれ、比較的大きいものであり、駅家は里(郷)に準ずる行政単位となっていた。
伝馬
・伝馬は郡ごとに各5疋置く。国司の離着任などの公的な旅、罪人などの護送など、はばひろく利用。その使用にあたっては伝符の発給が必要。
・公用によって個人で移動する場合には、過所(かしょ)と呼ばれる出身・目的地などが書かれた身分証明書を携行する必要があり、関所において提示する必要があった。

駅路遺跡、出土木簡など
曲金北遺跡(静岡市)(右の資料⑨を参照)
古代の東海道駅路の遺構であり、道の両端に側溝が整備された直線道路が発掘された。道幅は約12m。
(注):現在の東海道線および新幹線とほぼ並行する直線道路が復元された。
出土木簡(右の資料②③を参照)
②伊場遺跡(静岡県浜松市)
遠江国の人が美濃関を通って京へ向かうための過所木簡である。宮地駅家・山豆奈駅家、鳥取駅家は三河国内の駅名である。←当時は、勝手な移動をしてはいけない。過所(パスポート)が必要で、木簡は簡易なものとして代用している。
③平城京跡東院地区出土木簡
平城京から甲斐国に行くための過所木簡である。「私的な理由によって不破関を往く」とある。


畿内七道と行程(右の資料を参照)
・表中、「上り」とあるのは、国府から京までの往路の行程(日数)で、「下り」は京から国府までの帰路の行程(日数)である。
・「遠・中・近」は、各道(ルート)の中で、遠・中・近を決めている。
・「上り」は、荷物(調・庸など)が多い。「下り」(帰路)は、食料だけで荷物がないから短くてすむ。(下りの日数は、、上りの日数の半分である。)
*緊急時で、最も速い場合は、多賀城(陸奥-蝦夷に備えた城)まで6〜7日で到着することができた。

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**あとがき**
・大宝律令(701年)により、全国が畿内・七道に行政区分された。地方には、それぞれ国(こく)・郡(ぐん)・里(り)(のちに郷(ごう)と改称)が置かれて、国司・郡司・里長が任じられた。
・「駅・伝馬(えき・てんま)を給(たま)はむことは、皆鈴・伝符の剋の数に依れ。」(『養老令』公式令42条(718年制定))…律令の条文に、駅路の通行の際に使用する馬や公用旅行者が使用する馬の給付については、駅鈴や伝符の剋(きざみ)の数によって決めよ、とある。中央集権的な政治を機能させるために、道路や地方機関が整備された。
・七道の名称は長く存続し、現在も東海・北陸・山陰・山陽諸道の名称は、鉄道や高速道路などに用いられている。