司馬遼太郎小説・・・

今度は『峠』(全3巻)を読み終えました。

お盆から読み始めて一通り読破し、

“あとがき”で司馬先生が「主人公・河井継之助の

生涯を通して【侍とは何か】を探求したかった」と記載されており、

今度はそのスタンスを意識しながら、先日2回目を読み終えました。

司馬小説を読んでいつも感じることは、

時代は違っても現代を生きる私たちと同じように

悩み苦しみ失望や絶望感に苛まれながらも、

一筋の光(希望)を信じて己のあるべき人生を歩み、

その個人個人の人生の糸(道)を束にしたものが、

町を作り、国をつくり、そしてこの世界を作って来たのだ・・・

という大局的事実であります。フェクションも交えながら、

あらゆる登場人物がフルカラーで活き活きと小説の中で生きていて、

感情移入がしやすいです。

ほんと、面白い。。。

この『峠』の前は、2回目の『竜馬がゆく』(全6巻)を読み、

幕末の志士たちが自らの命を懸けて新しい時代を

追い求めるという視点を知り、

今回の『峠』では、越長岡藩藩主・牧野家の

徳川家に対する忠義を貫こうとした

家老・河井継之助の視点を知り、

そして今は『最後の将軍』を読み、

徳川家十五代将軍・慶喜の視点から

幕末の混乱期を学ばせて頂いております。

きっと、どの時代も、その人その人がそれなりに

一所懸命、立場役割に基づいた人生を歩まれ、

その個人個人の人生の糸が束になったものが

【時代・歴史】というものなんやなんなぁ・・・と、

深く感銘を受けました。

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【河井継之助 語録(『峠』より)】

・「志とは、なにか」

継之助は、目をつぶった。

自分に対してつぶやいているような気配である。

「世は、絵でいえば一幅の画布である。そこに筆をあげて絵をかく。

なにを描くか、志をもってかく。それが志だ」

継之助の志とは、男子それぞれがもっている

人生の主題(テーマ)というべきものだろう。

・要するに、人間が天地万物なるものを認識しているのは、

人間の心には天地万物と霊犀(れいさい)相通ずる

感応力があるからであるという。

いやいや、その天地万象も人間の心も二つのものではない。

天地万象も人間の心も、「同体である」という。

「だから心をつねに曇らさずに保っておくと、

物事がよくみえる。学問とはなにか。

心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である」

・「ものには時機がある。時機が来なければいかに名案でもものにならぬ。

その時機がそろそろ来かけているのだ」

・(そんな甘さで、今後、時代の大爆風(おおしけ)のなかで

藩の舵をとってゆけるものか)

継之助の考えでは、物事をやろうとするろき、

その発想点はできるだけ簡単明瞭でなければならぬ。

複雑で欲深な発想や目的意識は結局、あぶ蜂とらずになる、と継之助はおもう。

(たとえば、こういくことだ。藩のためにもなり

、天下のためにもよく、天朝もよろこび、

幕府も笑い、領民も泣かさず、親にも孝に、女にももてる、

というようなばかなゆきかたがあるはずがない)

ということであった。

そういうことを思いつく人間というものは空想家であり、

ほらふきであり、結局はなにもしない。

・継之助がおもうのに、人間にとって必要なのは視角を変えることであり、

他人の視角をおもしろがるということである。

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・・・天から大地に降った雨が、

年月をかけて山や森から湧き出て、やがて川となり、

それらの川が大きな一本の川【大河】という集合化また具現化されたものが、

【歴史】というものであるということです。

現在過去未来に生きるあらゆる人たちは見た目はバラバラであっても、

実は一つの太くて長い一本の綱のようなものだということかと感じました。。。

古えの方々の智慧を、これからも学び、

自身のこれからの人生に活かして参りたいと思います(ー人ー)☆