「真田信繁を取り巻く武将たち」

・日時:8月30日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
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**前回(H28年3月)の講義「真田一族の興亡」の復習**
・真田氏は、信濃国真田郷を根拠とした小豪族。真田は古来交通の要地であった。
・真田幸綱(真田家の再興)→信綱(長篠の戦いに死す)→昌幸(1547-1611年)(【沼田城の攻略、本能寺の変後(上杉に再従属)、次男信繁を上杉景勝に人質。】
・「第一次上田戦争(1585年)」徳川軍を撃退。その後、真田氏は、豊臣秀吉配下の独立大名になる。
・関ヶ原の戦い…「犬伏の別れ」(父子3人で真田家の去就について下野・犬伏で話し合う。結果は、昌幸と信繁は、西軍(石田方)、信之は東軍(徳川方)。「第二次上田戦争」(徳川秀忠軍は、昌幸に翻弄されて関ヶ原合戦に遅参。)

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(%エンピツ%)講義の内容
秀吉に愛された真田信繁
従来、単なる人質(景勝に人質、秀吉に人質)として評価。近年の研究で、「秀吉の馬廻衆」として付き添った親衛隊的な存在が判明。文禄3年(1594)、従五位下左衛門佐(さえもんのすけ)を叙任され、豊臣姓を与えられた。
信繁の義父となった大谷吉継
信繁は、豊臣政権下の奉行大谷吉継の娘を正室とした。吉継(1559-1600年)は、若い頃より秀吉に仕え、石田三成は盟友。関ヶ原合戦については、当初、三成のやり方を嫌っていたが、三成の意志が固いとすると、家康の打倒へ。病を押して、戦場に。最後は自害している。
・吉継の長男、大谷吉治は冬の陣に参加。夏の陣では信繁とともに松平忠直と戦い戦死。
大谷吉継書状(昌幸・信繁に上方の情勢を連絡)(*右上の資料を参照)
「大阪城を家康から取り戻したこと、西国諸大名が結集して秀頼を支える決意であること、真田の妻子は吉継が預かっていること、など力添えを求める内容。」(慶長5年/1600年7月30日)
・昌幸・信繁父子は、西軍に勝利ありと判断し、上田籠城戦の準備に入ったと思われる。(家康に従って会津出兵した豊臣大名は、関ヶ原合戦でほとんどが東軍に帰属している。)


信繁と共に戦った後藤又兵衛
・後藤又兵衛(1560-1615年)…黒田官兵衛の代から黒田家に仕える。長政の代になると主君と折り合いが悪くなり出奔。細川家や池田家を転々とし,関ヶ原の合戦後は浪人生活。慶長10年に大坂の陣が勃発すると、招かれて大坂城に入城。浪人の身でありながら、大名格の客将として遇され、信繁とともに五人衆のひとりに数えられた。
真田丸は誰が造ったか。
大坂御陣覚書』…「大坂本城の巽ニ当て、百間四方の出丸を構、後藤又兵衛政次に可有由也しか、後藤ハ諸手の遊軍ニ被仰付候故、此丸を真田左衛門尉請取籠ニより、敵味方共に是を真田丸と云」
・この出城は。大坂城惣構防禦強化の一環として、大坂方が立案し実行に移した普請であった。さらに、この出城普請には、後藤又兵衛が深く関わっており、当初は彼がここを守る予定だったが、大坂方の作戦変更により、後藤が遊軍にまわされたため、信繁が後を引き継いだ。←信繁がおかれていた当時の立場は、大坂城内において微妙。父親ゆずりの戦上手であったかもしれないが、実戦経験が他の大坂方の武将と比べて少ない。さらに関ヶ原合戦ときは兄信之が徳川方についていたことはマイナス。信繁が本当の味方なのか疑わしい。そこで、信繁は、出丸を築き、ここの守備につくことで、東軍の攻撃を一手に引き受け、疑いを晴らそうとしたのだとされる。
大坂冬の陣(1614年)[真田丸の攻防]
12月4日、真田丸を松平忠直・前田利常・井伊直孝ら総攻撃。しかし東軍は大敗を喫し、多大な損害をうける。茶臼山の家康本陣に報告され、家康は、その後は大坂城に向けて、大筒や石火矢を撃たせ、城内の不安と動揺を誘おうと考えた。…包囲戦が続く中、水面下で和睦交渉。12月19日和睦成立。二の丸と惣構の堀を埋める。真田丸は破壊。


信繁を討ち取った松平忠直
・【大坂夏の陣(1615年)】5月6日、道明寺の戦いで信繁の援軍が遅れたこともあり、後藤又兵衛は討死。翌7日、天王寺で最終決戦。信繁は、家康本陣に三度も突撃を繰り返し、家康をあと一歩のところまで追い詰める。最期は松平忠直隊(越前藩士、西尾仁左衛門宗次)と闘い信繁は戦死。
松平忠直(1595−1650年):父・結城秀康(家康の次男)の長男。13歳で越前75万石を相続し、17歳で秀忠の娘・勝姫と結婚。20歳で大坂冬の陣に2万の兵を率いて参戦。真田丸の攻撃で、甚大な被害。この失敗を家康から 責められたが、大坂夏の陣では、死戦を覚悟して参戦。
★《右上の資料を参照》
・「茶壷〈初花〉」…夏の陣の恩賞として忠直が拝領したとされる「初花」の茶壷(古瀬戸の逸品)。壺に補修の跡があるのは、忠直がこの恩賞では奮戦した家臣の功績に報いることができないと、投げ捨てて破損したため伝えられる。
・「采配」(伝真田幸村所用)(右下)…白紙の房の部分に血液とおぼしき染みが残っており、「幸村血付きの采配」として知られる。
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**あとがき**
◆真田丸が後藤丸になっていた可能性…当初から「真田丸」とよばれていなかった。信繁が入る前から大坂城惣構南側の出丸を構築しようとしていた。しかも、信繁以外(後藤又兵衛)の武将が入る予定であった。
◆昌幸は、石田三成に信之が徳川方ということは言っていない。(大谷吉継書状を参照)
◆信繁は、秀頼の出陣を希望したが、秀頼出陣せず。
◆真田幸村は、奇跡的な英雄化。→「真田は日本一の兵」
◇信繁供養のための「石造地蔵菩薩」…通称「真田地蔵」。真田信繁を討ち取った西尾宗次が造立したと伝わる。福井市の孝顕寺の境内に安置されていた。(特別展「真田丸」大阪歴史博物館に展示)