哲学カフェ「人間にとって価値とは何か」 開催しました。

2016年10月29日14:00から、テーマは「人間にとって価値とは何か」で、赤井郁夫さんの進行で開催しました。参加者は24人(含スタッフ・3人)でした。 
最初に、進行役より、カフェフィロでは辞書などは参考にしないことになっているが、今回は難しいテーマなので特例で参考にしたとの断りのもと辞書の定義が示された。議論の途中では、価値の多様性、歴史上、あるいは再帰性の観点からの研究なども披露されたが、ここでは省略します。
議論の対象が、人か人類か生き物か、価値か価値観か、計量できるかどうか、有形か無形か、既存か創造するものか等々発散しました。焦点を特に絞らず主な内容をまとめました。

議論の概要
参加者からの、価値とは判断基準であるという発言から議論が始まった。これに判断基準はあるのだろうかという疑問が提示された。判断基準として入試試験は学力を判断、プロ野球ドラフト会議では選手の技量を、ノーベル賞も選考委員会の基準で判断していることなどが例示された。人は性格や仕事ができるかに価値がある。人に対する価値と物に対する価値は違う。人に対して価値という尺度で見るのはなじまない。

価値というのは知っているから判断できるもので、絵画などでは、個人の思い込みもあるだろうが、個人レベルでも判断基準を持っている。価値と価値観という言葉があるが、価値は物差しではなくそのもの自体を指す。本来価値という言葉(概念?)は脳にはないが、価値観はある。価値観とは価値を決めるための観点だ。共通の価値が、認識されて価値観になる。

価値は、その時点、その場、対象によって存在し、それらが変化すれば変化する。食べ物などの有形物を対象としての価値と、心のような無形の価値もあり、一元的ではなく多様である。人にとっての価値と、人間(人類)にとっての価値とは異なると考えられる。人間にとっての価値とは相対的な価値ということになるか。人気が高かった一発芸人も、今年は人気がなくなることがある。それぞれの時代に則した価値があり、それが人類にとっての価値になる。社会の中で価値は流転してゆく。

価値はもともと様々な側面を持っている。一人の人間でも一つの価値観ではないし、人は自分の価値観で他人を評価しつつ付き合っている。俺の価値、あの人の価値、アレもコレもというように。民族・国家によっても異なるものだ。個人の価値があるように、国民の総意という価値もある。国民栄誉賞などは、栄誉を与えてよいであろうという、総意が得られるという判断の下、授与されている。ノーベル賞のように、総意ではなく選考委員会に任さざるを得ないものもある。

価値あるものと必要なものと混同しているが別問題だ。価値とはその人にとっての感動、生きがい、生きる力、人生の転換点になり得るものだ。価値は幸せ欲求を対象にした話だ。何日間も命懸けで順位を競うパタゴニア縦走競技がNHKTVで放映された。50歳代の日本人が完走し、銀メダルをもらって何物にも代えがたい最高の喜びであると。過去何度か失敗した後に、完走したことに価値はあるが、生きる上では必ずしも必要なものではない。

個性にも価値ある個性も、価値のない個性もある。個人の価値観でアイドルにはまるのもいいが、各人が勝手にしたいこと、利己主義も許されるのか。迷惑なことは価値とは言えない。最近、自分で自分を認めることができず、世間に存在を認めさせなければ価値がないと思い込み、世間を騒がせるだけの事件が起きている。物を買う行為は、売り手に相手にしてもえるので自分の存在を感じとれるので、やたらに物を買う人もいる。他人に認められたい感情を持っていない人も居る。ノーベル賞受賞に無反応な人もいる。個性は外から見て価値と認めるべき。役に立つという見方とは違い、人にとって必要なもの。個性は価値と認めるべき。

人の存在価値ということでの議論もあった。自分の存在に価値があると同じく、どのような人も存在に価値がある。生きていることそのことだけで価値があり、優劣があるにしてもすべて尊いのだ。人は同列ではないが、生きていることの価値は譲れない。それは最低限の価値で十分条件ではない。最低限+αがあるはず。言葉にするのは難しいが、亡くなった人にも価値がある。
 
価値は、金で価値が分かるという、有形のものを対象とするものだ。物に対しては数値で計れるものである。これに対し、金で買えないものもあるという意見も。動物は金を使わないが、動物にも生きるために必要な価値もあるだろう。価値は計れるものばかりではなく、計れるものは議論の対象外だ。

価値はどうして生じるのであろう。人は限界を持っている。時間も限界の一つで、納期・期日に制約されて、やり方、内容、質の選択を迫られる。自分が行った選択が「価値あるもの」か「価値ないもの」であったかで生じる。価値を付けること創造は、人間にしかできないことである。色々な変化のあること、夢のあるものを創造することも価値のあることで、その様なものの中には、永い時間経って分かる価値もある。
これに対し、真っ向からの反対意見も出された。新しいものである必要なない。新しいものを作って売る人間はダメ。価値を創出して喜ぶのはだめな人間。無理して価値を創りだしているのはどうなのか? 価値を意識せずに生きているのを価値とする生き方もある。それでは価値の面白さが分からないし、議論させなくする厭らしさもある。
人は、抽象的な価値も創り出している。パラダイムシフトを起こす概念は、後々大きな価値が出てくる。再帰性の観点から、現在は停滞期で、地球の有限性により、創造、進歩、概念に価値づけする新しい概念が生まれる可能性があるよい時代ととらえることができる。絶対価値はあまり意味をなさない。社会的共通価値だけが、唯一の価値とはならない。

個性は価値観の物差し足り得るのかと問いかけがなされた。個性にも価値ある個性、価値のない個性もある。一人なら個性は無色透明であるが、他人がいることで価値が出てくる。芸人は第三者が居て価値が出る。現在は個性を認める傾向になっている。過去は「変な事」だとされたことも、現在は「面白い」と受けとめられる。

 良くも悪くも、メディアが価値を形成してゆく面がある。そのため真実を伝える義務がある。ただ、多様な社会の中で何が真実なのかはわからない。メディアは世の中に価値を与えたいために存在するのであるから、影響を与えて当然だ。

価値、価値観を求めると犠牲や対価が生じる面がある。ひとは生きる上で必ず選択を強いられる。選択した結果代償を払うことになる。価値を手に入れるために、どれだけ犠牲が払えるものかということだ。価値に対して金、時間、労力を掛けるものであり、ある程度以上のものを得るためだ。
究極、人にとっての価値あることは、争いごとのない公平な社会を実現することだ。戦争の惨めさ、言論・行動の統制等々ひどいものがあったが、これを回避すべき。平和のために金を掛けてもよいが、ではどの程度の覚悟で、実現するか。平和の価値は高い。金を掛けすぎるということはない。戦争を考えられる世の中の社会であることは、価値と考える。

さいごに
哲学カフェではあえて結論を出すことをしないが、従来のテーマでは何となく方向が感じられることがあった。本テーマでは、従来になく議論が発散したまま終了となった。価値とはそれほどとらえにくく、多様なもので議論が尽きないテーマだったということになろうか。

次回開催予定 17年2月25日(第4土曜日)、テーマは未定です。

文責 濱崎