『平家物語を読む』〜木曽義仲の横暴と最期〜

・日時:12月15日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田 陽美先生(大阪大谷大学文学部教授)
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**『平家物語』の概要**
・成立:平家滅亡(1185年)から40〜50年後(1230年頃)。作者は未詳。全12巻。
・構成:盛者必衰、平家の栄華と没落が語られている。「祇園精舎の鐘の声…おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」。世の中は、「諸行無常」。盲目の琵琶法師の語りを通じて広まった。
・四重田(よえだ)先生の講義『平家物語を読む』は、2011年1月に始まって、今回で13回目の講義。
**木曽義仲・略年表**
・1154年(久寿1):義仲は、父源義賢(よしたか)の次男として.東国に生まれる。父の死後(義仲2歳)、信濃国の木曽の土豪、.中原兼遠(かねとう)の庇護下で育つ。
・1180年(治承4):以仁王の平家追討の令旨をうけ、信濃国佐久郡依田上で挙兵。
・1183年(寿永2)5月、越中境の倶利伽羅峠の戦いで十万ともいわれる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、勢いに乗って都へ上る。→7月、平家一門都落ち。平家一門はなす術なく、清盛は既に死んでいる(1181年清盛逝去)。京白河の4、5万軒の民家に火をかけて、皆焼き払い、都をでる。

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(%エンピツ%)講義の内容
『平家物語』巻第八
*「山門御幸」(さんもんごこう)…都を脱出した後白河法皇は比叡山に御所を移したが、義仲軍五万騎に守られ、入京した。
*「名虎」(なとら)…義仲は、法皇の院宣によって、左馬頭(さまのかみ)に任ぜられ、朝日将軍と呼ばれる(京都占領軍の 総帥として、義仲は得意の絶頂)。
*「緒環(おだまき)」、「大宰府落ち」、「征夷大将軍の院宣」の章段は省略。

猫間(ねこま)(*右上の資料を参照)
「義仲は、二歳から信濃国の木曽という山里に三十歳まで住み慣れていたので、礼儀などわかるはずもない。…ある時、猫間中納言光隆卿という人が、義仲の館に訪れると、猫間殿と言わずに、猫殿と呼び、食事時でもないのに、なんでも新しい物を『無塩』というものだと思い、「『無塩』の平茸があるか」と言ったり、田舎風の大きな深い椀に飯を山盛りによそい、おかず三品に、平茸の汁で差し上げた。…光隆卿は、箸をとって召し上がるふりをした。義仲は、これをみて、「猫殿は小食でいらっしゃるな。いわゆる『猫おろし』(すべて食べないで猫の食い残し)をなさっている。かき込まれよ。」とせき立てられた。猫間中納言、相談なさることも一言も言いださず、急いで.帰ってしまった。」
・猫間は、地名。光隆卿を動物の猫あつかいして、無礼極まりない。
・義仲は、大きな深い椀でがつがつ食べながら、光隆卿に「どうぞどうぞ食べて」とせきたてている。

*「水島合戦」、「瀬尾最期」、「室山」、「鼓判官」の章段は省略。

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『平家物語』巻第九
*「宇治川先陣」…宇治川をはさんで、義仲軍と頼朝軍が衝突。
*「河原合戦」…義仲軍敗退。御所には源義経が入って後白河法皇を守護する。

木曽最後(きそのさいご)(*右の資料を参照)(抜粋)
◆【義仲は、信濃から巴(ともえ)をつれて来ていた。巴は美女で、荒馬を乗りこなし、強弓を引く者で、刀を持てば、鬼でも神でも立ち向かうという、一人で千人力の武者である。今回も多くの兵が逃げ、討たれた中で、義仲に付き従う7騎の中にもまだ巴は討たれずに残っていた。…その後、巴を説得して東国へ逃がした。】
◇今井四郎兼平(いまいしろうかねひら)は、木曽義仲の乳母子(めのとご)。幼少の頃より、死ぬときは同じところで死のうと約束していた。兄弟以上に仲がいい。
◆【今や、義仲は、兼平と.たった主従二騎となった。義仲が、「日ごろなにともない鎧(よろい)が、今日は重く感じるぞ」と言うと、「…気弱になって、そう感じるのです。この兼平一騎を武者千騎とお思いなってください。手元に、七、八本の矢がありますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あちらに見えるのが粟津(あわず)の松原と言いますが、あの松の中でご自害ください」といって、馬を進めていくと、新たな敵が五十騎ほど現れた。…義仲は、「ここまで逃げて来たのは、お前と一緒に死のうと思うためである。同じ所で討死しよう」と言って、馬の鼻を並べて、駆け出そうとしたので、兼平は急いで馬から飛び降り、義仲の馬の口にしがみついて、「武士は、長年にわたってどれほど立派な手柄があっても、最期に失敗すると、長い間非難されるものです。取るに足らない、名もない武士に討たれたら、残念なことです。」…義仲殿は、「それでは」といって、粟津の松原へ馬を走らせた。】
◆【義仲は、ただ一騎で、粟津の松原に馬を走らせたが、人馬もろとも、深い田んぼの泥の中に沈んでしまい馬の頭が見えなくなった。鎧で馬の腹を蹴っても、鞭で何度も打っても、馬は動かない。三浦の石田次郎為久が追いついて、弦を引いて矢を放った。義仲は甲の内側を射られて、深手を負った。石田の部下二人が駆け寄って、ついに義仲の首を取ってしまった。首を太刀の先に突き刺して、高く差し上げ、大声で「近日、日本国で名高い木曽殿を、三浦の石田次郎為久が打ち取ったぞ」と名乗りを上げたところ、今井兼平はまだ戦っていたが、これを聞いて、「今となっては誰をかばうために戦うのか。戦う意味がない。これをご覧あれ、東国の方々。これが、日本一の強い武者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口に含み、馬からまっ逆さまに飛び落ちて、刀に貫(つらぬ)かれて亡くなった。】
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**あとがき**
・当時の京都から見れば、大田舎の信濃の山の中で育った義仲の、京都人から見ての無骨、不作法ぶりが「平家物語」の中に描かれている。
・木曽の兵士の乱暴ぶりが、京都の間に広まって、義仲を軽蔑するようになった。
・乳母子(めのとご)…同じ乳で育った乳兄弟は、同じ血を分けた兄弟よりも、一心同体の意識が強いことが多かった。模範例として、義仲・兼平の乳兄弟があげられる。
・義仲の快進撃で、平家は都を捨てて西海へ逃れ去る。しかし、都入りした義仲はその勢威を維持することができず、後白河法皇との確執から東国の源頼朝の介入を招き、東国勢の猛攻を受けてあえなく滅び去る。(頼朝は、1184年(寿永3)1月、弟範頼と義経を大将軍として、義仲討伐の軍を発向)