「中 甚兵衛」と「西村 市郎右衛門」

私が暮らす町・大阪府八尾市の南側には

「大和川」という一級河川が流れています。

今回の台風等による豪雨により、

この大和川から水が溢れ出てしまい、

私たちの生命や財産が根こそぎ

流されてしまう危険性があります。

そんな危険を感じる度に思い出す、

私たち八尾・河内の歴史的人物が2人存在します。

元々の大和川は、石川と合流する場所あたりから

複数の川が北西方向に流れており、

過去多くの洪水被害を齎し、我々の先祖は苦しみ続けました。

【参考資料】
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072600070/

江戸時代初期、庄屋の次男として

河内國で生まれ育った中 甚兵衛(なか じんべえ)は、

この洪水被害を無くそうと

大和川の付け替え工事に奔走した人です。

大和川付け替え並びにそれに関連する治水計画を

50年近くに渡って、江戸幕府に嘆願し続け、

最後は農民の身でありながら幕臣に交じって、

付け替え工事を指揮されました。

西村 市郎右衛門(にしむら いちろうえもん)は、

1704年の大和川の付替えにより、

旧大和川流域の灌漑用水が乏しくなったため、

流域の村々は新大和川から井路川へ

水をひくことを江戸幕府に請願しましたが、

許可される前に大旱に遭い、農民は困苦にあえいだので、

西村市郎右衛門(弓削村の庄屋)は、

幕府の許可を待たずに二つの樋を開いて農民を救いました。

が、幕府に捕えられて大阪城中で客死、

家財没収一家は断絶となってしまいました。

八尾・志紀&大正地区では、毎年旧盆の頃、

「功念仏踊(こうねんぶつおどり」を

踊っていたそうですが、

これは市郎右衛門に感謝し、

その霊を慰めるためのものということです。

弔いの踊りでとても地味ですので、

時代と共に踊られなくなったそうですが、

それを現代に蘇らせようという市民活動があり、

現在はその市民活動の人たちが継承されています。

【参考資料】
http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1288

このような感じで、幾重にも重なる

大河の歴史の先端を歩む我々現代人は、

かつての先人・偉人たちの叡智によって今

【生かされている】という感謝の念を決して忘れず、

そして我々も子々孫々のことを想い、

叡智を未来に遺す生き方をしなければならないと考えます。

<写真>

豪雨後の大和川の様子(2014.8.10撮影)、

中 甚兵衛像など(柏原市市役所西側・国道25号線と

旧170号線の交差点のところにあります)