『男声合唱に魅せられて』 山縣一晃

(写真)瀬戸内市牛窓町鹿忍から眺めた朝日—->
『男声合唱に魅せられて』は「ヴェルデ・リーガたより」
第12号(平成22年2月18日付)、第13号(同4月22日付)に
掲載されました。
★(その1) 戦前の我が家は邦楽の世界
 小学3年の頃と思うが、学芸会で独唱する破目になった。人前で歌うことの恥ずかしさが大きく、特別練習を逃げ回っていた。ついに当日になって運よく腹痛を起こし、休んでしまった。母が電話で謝っていた。お陰で翌日先生から叱られることはなかった。後年母を想い出す度に、あの日の母の姿が目に浮かぶ。
 学校でも家でも歌った記憶はほとんどないが、音楽とは無縁の生活だったわけではない。我が家は邦楽の世界であった。夕方になると父は長唄や尺八をやっていたし、母や姉たちはことを習っていた。レコードをかけると勧進帳や老松ばかりであった。家にあったピアノは触りもしなかった。今思えば「残念」の極まりであるが、当時の男児としてはごく普通のことであった。
 ただこのような平和な時代は長くは続かない。昭和12年、支那事変が起きどんどん軍国主義に傾斜していく。昭和16年、太平洋戦争に突入し、いよいよ戦局が厳しくなるや、中学生や女学生も学年単位で陸海軍の軍需工場へ動員された。
 その挙句の果てに昭和20年3月、我々の学年は4年生修了で1年早く繰り上げ卒業させられた。4年間に短縮された中学生活の半分は工場で機械油にまみれ、夜勤もやらされた。時には軍から派遣された監督官にビンタも喰らい、昼夜の区別なしにB29の空襲も経験して昭和20年8月の終戦を迎えた。

(写真)瀬戸大橋から昇る朝日・倉敷市児島通生—->
★(その2) 総てはグリークラブから
 終戦の翌年昭和21年に私は大阪商科大学(現大阪市立大学)高商部に入学した。杉本町校舎は進駐軍に接収され、27年の卒業までの6年間、大阪市内の小学校が仮の校舎であった。私はテニス部に入りたかったが、中学時代に公式戦の成績がない者はボール拾いから始めると言われ席を立った。
 翌22年になると、休講や学生大会がやたらに多く、登校しても面白くないことが続いていた。ある日、隣の教室から聞こえてきた歌声がとても美しく、それが男声合唱であり、後日入部したグリークラブであった。
 入部したものの部室もなく、ピアノもない。しかも私は楽譜も読ず、音程もわからず、級友のグリーメンを相手に一つの曲を毎日繰り返し練習した。上級生からは「覚えとらん」と叱られ、皆からは励まされたり、からかわれたり。途中何度やめようか思ったことか!その都度クラブメイトに支えられ、とうとうグリークラブにはまり込んでしまった。
 24年商学部に入学。グリーのマネージャーとなり先輩廻り(名簿作成と寄付集め)をしたが、戦争による消息不明、資料散逸で苦労した。さらに、関西学生合唱連盟理事として運営にかかわった。ちょうどその頃は学制改革の時期にあたり、旧制大阪商大グリークラブと新制大阪市立大学グリークラブがおのおの別々に活動していた。
 我々は昭和元年創立の輝かしい歴史を持つ大阪商大グリーを引き継いでもらいたい想いが強く、いつ統合するか、どのような形がスムースかといろいろ考えた結果、新・旧グリークラブ一緒にどこかで合宿演奏を行うのがベスト、となった。

(写真)瀬戸内海に沈む夕日・瀬戸内市牛窓町—->
★(その3) 信州演奏旅行
 昭和26年夏、新・旧合わせ25名のグリーメンが信州に向け大阪を出発した。これが大阪市立大学グリークラブ第1回演奏旅行となり、以後17年間続いた。合宿は別所温泉の常楽寺にお願いし、演奏会は上田市を中心に各地の高校で行った。演奏会の評判は良く、年々演奏会場が増えていった。多い年には70名以上のグリーメンが参加した。
 長年の間、大勢の若者をお世話していただいた常楽寺の住職とご家族の皆様にはただただ感謝の気持ちでいっぱいである。17年間に参加したグリーメンは延250名にもなり、夫々この信州後に懐かしい想いを持っている。中には演奏会で知り合った女子高生と恋に落ち、幸せな結婚をした男もいる。
 私も信州に行く時には常楽寺と上高地を必ず訪れる様にしている。私の「第2のふるさと」となった。なお、お世話になった常楽寺住職の半田孝淳師は、2007(平成19)年1月第256世比叡山天台座主に上任(就任)され、現在天台宗のトップとして、国内、国際宗教界においてご活躍中である。
 かくして昭和27年、朝鮮戦争(24〜26年)後の不況の嵐の中、大学卒業となる。グリークラブで男声合唱とめぐり会えたお陰で卒業後も、また第2の人生に入っても合唱を愛するたくさんの友人に出会い、終生の交友をいただいていることは無上の喜びである。

(写真)県立美術館からの夕日・松江市袖師—->
★(その4) 「ジュピターコール」のこと
 それは昭和25年春のこと。その扉を開けると怒涛のような低音の響き。部屋の割れんばかりのff(フォルテシモ)に圧倒された。この夜は先輩の誘いで男声合唱「ジュピターコール」の入団テストを受けに来た。ここでちょって「ジュピターコール」を紹介しよう。
 終戦後いち早く復活した合唱団は大学のグリークラブであり、大学OBたちで結成された新月会(関西学院大学)やクローバークラブ((同志社大学)であった。そのような時代に一般人で発足したのが「ジュピターコール」である。 その中心になったのは、NHK大阪放送合唱団「木曜会」と大阪ハリストス正教会聖歌隊のメンバーである。
 常任指揮者は昭和22年9月、シベリア抑留から復員帰還された加藤直四郎先生であった。先生は明治41年生まれ、昭和6年東京音楽学校卒業後、大阪夕陽丘高女に奉職された。また、先生は敬虔なハリストス正教会の信者であり、昭和7年より大阪ハリストス正教会聖歌隊の指揮者をされていたので、ジュピターコールのレパートリーとして、主にスラブ系合唱曲とロシア民謡を得意としていた。
 爾来、平成21年に至る78年間大阪中心に数多くの合唱団の指揮をされ、この間大阪教育大学の教授、関西合唱連盟の理事・理事長を歴任された。戦後日本の合唱界をリードし、関西合唱界発展の基礎を築かれた功労者のお一人である。
 昨年(平成21年7月6日)百歳で大往生された先生を偲び、ゆかりの者たちが集い、恩師に捧げる追悼演奏会を行う予定。私たちを永年ご指導いただいた数々の作品を心より歌いたいと思っております。
 追悼演奏会は平成22年5月5日、午後2時より伊丹ホール。余談ながら「追悼合同合唱団」は3つの合唱団とグリンエコーOB・OGの合同編成である。女声パートには80代、90代が数人、男声にも80代が数人が出演していた。今回が最後だと言いながらOB連中はまた声を出している。年々欠席者は増えるが、しぶとく出てくる者たちはどこかで歌っているからで、まさしく「継続は力なり」を感じさせるものがある。

(写真)日本海に沈む夕日・青森県西津軽郡深浦町—->
★(その5) 「バスパートの醍醐味」
 話を元に戻そう。ジュピターの入団テストは何とか合格したが、その時の先生の一言「あなたはバスの音色ですね」が私のパートを決めてしまった。以来今日までいろいろな合唱団で歌う時も、バスパートから離れたことはない。
 何しろジュピターの歌うスラブ系教会音楽やロシア民謡(ロシア革命以前、亡命したドンコザックの歌う民謡)は、低音部にEやD音程が出てくる。1人ではとても響かないE、Dもみんなで歌うと共鳴してくるので不思議である。その時の気分の良さは格別である。然しメロディーパートのような華やかさはない。
 バリトンも変化があって面白いパートではあるが、アカペラの4部合唱ではバスパートが文字通りベーシックな役割受け持つ。合唱のハーモニーを支え、厚みと広がりを与える土台の役割である。日本には通常のバスが出す低音よりさらに1オクターブ下を出す「オクタビスト」が数人いると聞いている。その一人である鈴木雪夫氏とラフマニノフの「晩祷」にご一緒したことがある。
 この曲は4部の混声合唱が最大で各3パートに分かれて音が重なり、神秘的な響きがする。もちろんアカペラで、バスパートはオルガンのような役割をしている。バスが低音をしっかり響かせながら伸ばす。その上にメロディーがゆったりと、厳かに流れる。そして美しく、今にも消えんばかりにPP(ピアニッシモ)へと・・・。
 頑張れよ!下がるなよ!と念じつつ低音を響かせるのだ。時には内声部が微妙な音を入れてくるが、それにも負けず低音を響かせ、全体を支えるベースの役割はなんと頼もしいことか!なんと崇高だろうか!バスパートを離れられない所以である。(完)