日 時 2019年9月18日(水)11時〜12時30分
日本人最初のオリンピック選手として、金栗四三とともに
ストックホルム大会に出場した三島弥彦(写真)の三島家に
まつわるお話しを聞いてきました。
彼の父・三島通庸は元薩摩藩士で、西郷隆盛や大久保利通と
同じ精忠組の出身であったため、明治維新後は要職を歴任します。
すなわち、山形・福島・栃木の県令(知事)を経て、警視総監に
登りつめ、子爵の称号まで得ます。
その父が警視総監の時に「警視庁武術大会」が開催され、柔術では講道館柔道が勝利したため、以降は警視庁の武術掛を講道館が務めることになり、嘉納治五郎とも親しくなっていきました。
これが縁の始まりとなって、やがて三島弥彦は嘉納治五郎とストックホルムへ行くことになります。
また兄の三島彌太郎は、マサチューセッツ大学・コーネル大学に留学し、帰国後は貴族院議員(桂太郎派閥)になり、それと並行して金融・不動産にも辣腕を振るいました。(那須地方開墾の開発会社を担う)
その後彌太郎は、横浜正金銀行頭取を経て、第8代日本銀行総裁にまで出世いたします。
このように薩摩の下級武士であった三島家は成長を続けましたが、ここに三島家と同じように大きくなったのが西郷隆盛の従弟筋であった大山家でした。
その大山家の娘・信子を彌太郎は妻としますが、ほどなく信子は病気となって離縁され、これをベースに小説化されたのが徳富蘆花の「不如帰」だと言われています。