「街道をゆく37 〜本郷界隈〜」まちあるき①概要編

8日夜に東京から戻って来て、

暫くは八尾・大阪でじーっとしている予定です(?)

最近の私の旅行スタイルの一つとして、

司馬遼太郎先生の『街道をゆく』を片手に、

そこに記載されている場所に行き、

“司馬先生と共に”いろんな切り口から

日本の歴史(かたち)を知って行くというものがあります。

今回は3時間、全ては到底回りきれませんでしたが、

あっちこっちひたすら歩いて観て回りました。

東京都文京区・上野駅の西側あたりにある

「本郷界隈」です(戦前までは「本郷区」ってあったらしい)。

この地域はもともとより台地(陸地)で縄文遺跡もあります。

さらに歴史的経緯で明治初期に

向ヶ岡“弥生町”という町名が付いた場所から、

稲作初期の土器(遺跡)が出てきて、

それでその時代が「弥生時代」と命名されたとのことです。

もしもその土地が弥生町じゃなかったら、

別の名前の時代名になっていたということです(笑)。

江戸時代が始まった時は寒村だったこの本郷界隈は、

江戸の町の膨張(幾度に起こった大火災により、

道幅を広げるために、いくつかの大名屋敷が

この地に引っ越しして来たことが始まり)。

その大屋敷のドンが加賀前田家のもので、

大名屋敷群が出来たがゆえに、

それに関係する人のための施設や商売、

人間が集まり町になって行ったとのことです。

江戸時代が終わって明治となり、

広く海外に見聞を求める時代となり、

広大なる廃墟に近い形となっていた旧加賀藩屋敷の場所に、

お雇い外国人の官舎が出来始めやがて

日本初の大学(今の東京大学 本郷キャンパス)が出来、

学生&先生、文豪たちの町になっていきました。

現在も残っている、東大の赤門(この本の表紙にもなっています)は、

加賀藩が11代将軍・家斉の娘を貰う際、

降嫁(こうか)した奥方の場合には奥には住まず、

御守殿という独立した一郭に住むという掟があり、

丹(に)に塗られた門も建造されたそうで、

それが今も遺る赤門なんだそうです!

明治に入り、夏目漱石や正岡子規、森鴎外などなど、

多くの文豪たちがこの本郷界隈に集まって来ました。

そこに東大があったからこそなんだとか。

なるほど。。。☆

物事のなりよう(成り様)は全て

過去・歴史にある訳ですね(^0^)!!!

【写真】 東大の赤門

赤門を入ると綺麗な銀杏並木 (なぜか外国人観光客多し^^;)

さらに奥に行くと三四郎池(旧加賀藩邸跡)があります。

学生たちが弓道されてて、ちょっと江戸っぽくて嬉しかったです^^♪