先日、ご縁あって「熊野」に行って来ました。
今回の旅も、司馬遼太郎先生の
『街道をゆく8〜熊野・古座街道など〜』持参です。
所謂“司馬史観”を頼りに/基本テキストとして、
地方の歴史を知り、そこから日本という国、
日本人という民族のかたちを知り、
そしてこの地球の未来における
日本國・大和民族の役割【存在意義】
というものを探っています。
2泊3日でマイカーぶっ飛ばして、
あっちこっち行きましたが、
一つだけみなさんにお知らせしたいと思います。
『街道をゆく』には載っていませんでしたが、
「大丹倉(おおにぐら)」に行きました↓
https://www.mikumano.net/meguri/onigura.html
やはり私は、肉体的なDNAの中に、
修験者の血があって、その血の影響がかなりあって、
この手の大きな岩の上に立ってみたくなるようです。
(座ることはしません。お尻をつけるのは、
大きな岩<この岩に宿る意識体>に対して
失礼だと観じるからです)
自らの確固たる意思により、
この家系を選んで生まれて来たんやと、
実感しています(笑)。
修験者的思考や価値観をお持ちでない方は、
なんのこっちゃ意味不明かと思われますが、
標高の高い、人里離れた、地場【気の流れ】の良い
大きな岩はとても魅力的です。
世間はコロナパニックな上、遠くで雷が鳴り、
小雨が降ったり止んだりする時に、
誰もこんな場所に来る訳もなく(笑)、
この場所を大いに独り占めです^^♪
右写真は、意味不明な感じで、
指を指していますが(笑)、
私が一体何を指しているのかは
みなさんの感性にオマカセいたします。
雨が止んだ後に雲間から光明が差し込むと、
雨の水が水蒸気となって空に還っていきます。
そんな風景を写真に撮ってみました。
とても美しい自然の営み風景です。
みなさん日々の人生の中で、
いろんなことを経験されておられるかと思われますが、
この雨粒のように雨が降って来て
(この地球の表面に生まれ落ちて来て)、
ちょっとしたら光明が差して空に蒸発して
消えてなくなる(天に召され死んで逝く)との同じ・・・
私たちの人生は【大自然の営み】
であるということを教えてくれます。
雨が降ってそれがやがて天に還っていくことに、
怒りや悲しみ、苦しみがあるのでしょうか?
私の場合、太陽からの光も含めた
【ヒカリ】というものの存在意義は、
「真実への気づき」であり、
「真実への完全一体化への営み」です。
わざわざ人里離れた場所に存在する大きな岩に登るのは、
それだけその場所・その存在が清浄なる
偉大さがあるからですし、
私はその存在に呼ばれているから行っただけのことです。
大いなる神聖な意識が宿る岩というものは
地球の意識体の一部であり【そのもの】でありますので、
その岩(地球の意識)とやりとりするのが目的です。
なお、私の場合「やりとり」ですので、
帰依する訳でも崇める訳でもないので上下関係ではなく、
一つの大いなる目的を達成するための
【パートナー】という横の関係です。
人間は大なり小なり自我<色>というものを
持っておりますので、残念ながら、
今の状態に於いては真実をありのままに
教えてくれる存在ではありません。
従いまして、人間以外の万物ともやりとり出来る
感性/能力を持たなければならず、
そのためにも自らをクリアーにし続けなければならないし
(自分に自我というものがある限り、
他者の自我と共鳴し、未来永劫、真実に辿り着くことはない)、
それが私がこの度の人生に於いて
果たすべき役割にとって必要不可欠なプロセスで、
基本的な要素であると観じております。