隠岐に縁深い・・・この地に島流しに遭った天皇は、
先程日記をアップしました後鳥羽天皇と、
もうお一人、第96代で南朝初代天皇の
後醍醐天皇(1288〜1339)です。
後醍醐天皇はおごり高ぶる鎌倉幕府を倒そうと
計画しましたが密告により事前にバレてしまい、
鎌倉幕府の軍勢に敗れ捕縛された上、
天皇の座を奪われて、1332年に隠岐に流罪となりました。
![](/img/u43837/FI4012282_0E.jpg)
が、およそ一年で隠岐から逃げ出すことに成功し、
再び歴史の表舞台に返り咲いて挙兵し、
奈良・吉野で南朝を樹立して、
所謂「南北朝の動乱」へと日本の歴史は向かっていきます。
後鳥羽上皇は逃げ出さずにこの地で
19年間暮され亡くなりましたが、その点、
後醍醐天皇はめっちゃアクティブな方だったようですね(!?)
隠岐における後醍醐天皇の行在所跡は、
島後・隠岐の島にある、隠岐国分寺のある場所という説と、
島前・西ノ島にある黒木御所跡という説の二つがあります。
![](/img/u43837/FI4012282_1E.jpg)
両方行きましたが、個人的には
隠岐国分寺の方かなぁと観じております。
隠岐国分寺の方が規模が大きく、
元々(奈良時代から)国分寺並びに人が住まう場所があって、
後醍醐天皇を見張るための基本的なインフラが
揃っていて良かったのかな?と
鎌倉幕府の立場から思いました。
逆に後醍醐天皇の立場からすれば、
隠岐諸島で最も栄えている西郷港があるこの地の方が、
脱出し挙兵する為のあらゆる諜報活動を
しやすかったのでは?とも思いました。
![](/img/u43837/FI4012282_2E.jpg)
もしかしたら最初は隠岐国分寺の方で、
「こりゃマジで逃げ出すかも!?」と
危機感を感じた鎌倉幕府側がより逃げにくい・
あまり人が寄りつかない西ノ島の
黒木御所を突貫工事で作って、途中から
そっちに移動させた<させようとした>のかも知れません。
もしくは、最初から西ノ島側にしようとしていたのに、
御所を作るのが間に合わず、「仮の住まい」として
元々立派な建物がありインフラが揃っていた
隠岐国分寺になったのかも知れませんね〜!
だけど、本当のところは分かりません。。。
歴史の雲にかかって観えませんが、
当時のことを想いながら、あれこれ想像するのは
【歴史の醍醐味】って感じで、めちゃくちゃ面白いです〜^^♪
![](/img/u43837/FI4012282_3E.jpg)
●黒木御所跡・碧風館
https://www.e-oki.net/spot/detail.php?spot_id=35
●隠岐国分寺・後醍醐天皇行在所跡・蓮華会之館
https://www.e-oki.net/spot/detail.php?spot_id=13
(それぞれ隠岐観光協会 公式ホームページ)
1〜2枚目:西ノ島・黒木御所
3〜5枚目:隠岐の島・隠岐国分寺
![](/img/u43837/FI4012282_4E.jpg)