秋田城の城跡=戦国〜江戸時代の大名の

城跡と思われがちですが、秋田県の場合は、

秋田駅西側・千秋公園にあります

「久保田城跡」がそれにあたります。

かつて秋田界隈は「久保田藩」という藩名で、

代々佐竹家が治めていました。

では、「秋田城跡」とは何か?

更に歴史が遡り、奈良〜平安時代に存在したお城・・・

といいますか、今で言うところの奈良・大和政権における、

最北端の【地方官庁】です。

これより北側(秋田北部〜青森〜北海道界隈)は

当時【蝦夷地/えぞち】と呼ばれていて、

縄文時代より続く狩猟文化を持って生きる人たちがおり、

稲作文化でクニを治めていた大和政権との間に

戦争(小競り合い)が続いていました。

現代風で表現すると国境地帯です。

この秋田城跡は久保田城跡から直線距離4キロ程北西部の

(当時は)日本海が見下ろせる小高い丘の上にあります。

大和政権が蝦夷地の支配に手こずっていたのは、

武力云々よりも、むしろ、当時の稲作技術では、

秋田よりも北側の寒冷地では

稲が育ちにくかったからであると思います。

時代が下り、大和政権の勢力範囲が青森の先・・・

本州全土に及んだ後、北東北の方々は、

稲が育ちにくいことを苦しみ続け、

他地域よりも激しい大飢饉が何度も襲ってきます。

米中心の経済が江戸の終焉と共に

完全に消えていきましたが、近現代において

未だ経済的な繁栄を未だ見ずの状態であると、

ある東北の知人はおっしゃっていました。

1980年代のバブルも東北にはほぼなく・・・

多くのカネはあらゆる方法で中央(都市部)に

吸い上げられた〜!と嘆いておられました。

東日本大震災の復興事業に関しても、

地元企業にはカネは落ちず、大手ゼネコン等、

首都圏にある大企業にどさっと落ちている・・・かも知れませんね。

東北地方の方々が有史以来、総じて最も幸福だった時代は、

縄文時代だったのでは?と個人的には観じています。

あの青森・三内丸山遺跡の凄さ、平和であふれた

美しい村の風景は、時空を超えて、

我々に真の幸福な【ムラ/集合体としての人間的生活】とは何か?

ということを静かに教えてくれています。

それに比べてこの秋田城跡に実際立ってみて、

なんだか寂しいものを観じました。

古今東西、人間とは、比べ、争い、奪い、

殺めることを繰り返す、愚かな存在であるということです。

最後、秋田城跡史跡公園内にあります、

秋田県護国神社にお参りいたしました。

土地の広さの問題もありますが、

どうして秋田県の護国神社が久保田城跡ではなく、

この秋田城跡に併設されているのか?

歴史と紐解いてみますと、何となく理解出来ました。

カミとなられた英霊たち、はたまた様々な戦争で

人生を狂わされた先人たちは、

今の我が国、我が民族を観、なんと思っておられるでしょうか。

嘆かわしく、そして本当に申し訳がないです。

これ以上過ちは繰り返しません。全身全霊で持って引き続き、

精進いたします(=人=)宇留祈☆

【写真】

秋田城跡(雪でイマイチ様子が分かりませんが・・・)

秋田市立秋田城跡歴史資料館

秋田県護国神社

秋田市立秋田城跡歴史資料館

公式ホームページ(秋田城跡に併設されています)

https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1003616/index.html