『西行法師と高野山』

(%紫点%) 前期講座(文学・文芸コース)の第3回の講義報告です。
・日時:3月22日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「西行法師と高野山」
・講師:下西 忠先生(高野山大学教授)
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.西行について
・元永元年(1118)〜建久元年(1190)
・俗名、佐藤義清(のりきよ)
二十三歳の時(保延六年(1140))、官位も妻子も捨てて出家。法名 円位、のちに西行とも称した。
[高野山時代:約30年間]本格的な高野山入山は、久安五年(1149)頃(下西先生の推測)…高野山下山は治承二年(1178)頃
[西行の旅]:紀州・東国方面の行脚、中・四国行脚、関東・奥州行脚、伊勢と吉野行脚
[河内の弘川寺で入寂]
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*保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)は西行壮年の出来事。
*平清盛、源頼朝は同世代。
*奥州藤原氏の血を引く西行。

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2.西行の出家
○藤原頼長の日記『台記(たいき)』永治二年(1142)三月十五日の条
・藤原頼長(1120〜1156年:平安時代末期の公卿)の日記『台記』は、西行について書いてある貴重な客観的な資料です。
・「・・・西行は、…勇士をもって法皇に仕え、…仏道に入る。家富み年若く、心に愁なきに、遂に以って遁世す。人これを歎美するなり」
(要約)(西行は北面の武士として鳥羽院に仕えるも出家した。家は裕福で、二十三歳という若さで・・・人々は西行の出家を讃美している。)

「世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」 (西行上人集)
(歌意)(世を捨てる。本当に捨てるのか、そうではあるまい。捨てずにいる人こそが、わが身を捨てることになるのである。)

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2.西行の高野入山と下山
(1)高野入山
・久安五年(1149)頃、本格的な高野山入山
・【入山の要因】・・・①未曾有の大火(1149年)…雷火による山内全焼の大火により、非常に荒廃した。 ②弘法大師とその教学にひかれる。 ③西行の経済的基盤である荘園(田仲荘−(現)和歌山県紀ノ川市打田町)と高野山との距離の近さ
(2)高野山時代(1149年頃〜1178年頃)
・高野山復興…「高野聖」として活動
・保元元年(1156)に平氏(清盛)の支援より大塔復興(大火よりわずか十年に満たない復興は、西行が清盛への支援依頼などの働きかけもあった)
・入山後も京都へ往復し、貴族と交わり高野山復興に尽力
(3)高野下山
・住みなれた高野を下山し、伊勢に移住した。
・【明確な理由はわからない】(下西先生の推測)・・・①高野の復興がある程度目途がついたこと。 ②東大寺復興の勧進(治承四年(1180)ー平重衡による東大寺・興福寺の焼き討ち) ③崇徳院の近臣・藤原教長の死(教長と西行の交遊、西行の崇徳院に対する特別な思い)

「三十年の長きにわたる生活に終止符をうって、新しい人生に立ち向かうために一区切りをつけたい」という西行の意思の表れと解釈したい。」

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3.西行の和歌
(1)よく知られている和歌
「こころなき 身にもあはれは しられけり 鴫(しぎ)たつ沢の 秋の夕暮れ」 (新古今集)
(歌意) (鴫の飛び立つ沢の秋の夕暮れに出会うと、心なきわが身にも、もののあわれを感じることだ)
「歎(なげ)けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」(山家集)
(歌意)(歎き悲しめ、といって、月は私に物思いをさせるのであろうか。いやそうではあるまい。それなのに、月の所為(せい)であるかのように恨みがましい様子でこぼれ落ちる私の涙であることよ)
(2)高野で詠んだ和歌
「すむことは 所がらとぞ いひながら 高野はものの あはれなるかな」 (山家集)
(歌意)(住むことは所柄によるといいながら、高野はもののあわれを感じるすばらしいところですよ)(*「住む」と「澄む」がかけられている)
「山深み 入りて見と見る ものはみな あはれもよほす けしきなるかな」 (山家集)
(歌意)(山に入って目に見るあらゆるものは、あはれの情をさそう様子であることよ)
(3)西行の自賛歌(歌人が自歌中みずからよしとする代表歌)
「風になびく 富士のけぶりの 空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひかな」 (新古今集)
(歌意)(風になびく富士山の煙が空に消えていくが、ちょうどあのようにどうなっていくかわからない、わたしの心であるよ)(*「思ひ」に「煙」の縁語「火」を掛ける。魂の永遠の漂泊性をとらえて幽玄。このころの富士山は活火山)
(4)西行の辞世の和歌
「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」(山家集)
(歌意)(願わくば、桜の花の咲く下で春に死のう。釈迦入滅のその時節(二月十五日)、二月の満月の頃に)(*死ぬ直前に詠んだのではなく、かつて(20年前)詠んだ願望をそのまま実現するかのように、文治六年(1190)二月十六日、弘川寺にて入寂した)