遺跡の見方・・・『弥生集落』

(%緑点%) 前期講座(歴史コース)の第4回講義の報告です。
・日時:4月3日(火) am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題: 遺跡の見方「弥生集落」
・講師:笠井 敏光先生(文化プロデューサー)
(%雨%)4月3日(火)は、朝から”春の嵐”(爆弾低気圧)で荒れた天気でした。・・・この日の出席率は80%でしたが、いつも通りの進行で講義を終えました。
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.遺跡の見方
・「・・・の見方」→ “視点をもっているか”
・「現況」=ありのまま と 「基本条件」=あるべき特徴

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2.弥生の遺跡
・弥生の遺跡を発掘すると、「大きなムラ」と「小さなムラ」がある。(拠点集落、周辺集落という呼び名もある)
○西日本の環濠集落遺跡(右の資料を参照)
[弥生時代…紀元前4世紀〜後3世紀]
【弥生早期】・那珂遺跡(福岡)
【弥生前期】・板付遺跡(福岡)
弥生中期】(紀元前100年頃〜後100年頃)
・原の辻遺跡(長崎)、吉野ヶ里遺跡(佐賀)、池上曽根遺跡(大阪)、唐古・鍵遺跡(奈良)
【弥生後期・終末期】(100年頃〜200年頃)

*環濠集落とは、周囲に溝(堀)をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲耕作とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設。水掘をめぐらせた場合に「環濠」と書き、空堀をめぐらせた場合に「環壕」と書いて区別することがある。

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3.池上曾根遺跡を見る
・右の資料を参照して下さい。
[遺跡の状況]
・和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代中期の環濠集落遺跡
・環濠は二重にめぐらされている
・環濠集落西方一帯の水田域が推定
・集落の中心に方形に区画された首長の居住空間、その周辺に祭殿や工房が配置され、これらを中心にして階層の差を示すような状況で居住空間が取り巻く
・居住空間は溝(環濠)によって囲まれ、その外側には墓域が展開する
・全体として、首長空間を中心とした同心円構造をとるとされている
拠点集落(地域社会で核となる集落)であった→最盛期の居住域は10ヘクタール。人口は数百人に及び、農耕以外にも分業(生産活動)をやっていた。また、畿内各地との交流があった。

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4.首長の居住区がどのように形成されたのか
*右の資料は、武末純一氏による方形環壕の類型(三つのモデル)です。
A類型…円形の環壕の中に方形の区画を設け、その中に大型の掘立柱建物などを配置
B類型…円形の環壕の外に方形の区画が飛び出している
C類型…方形の区画が環壕を伴わずに単独に存在する
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5.都市とは何か
《都市の条件》
①集住(人口)
②方形区画(格段に差を持つ首長の権力)
③手工業の発達
④分業を支える流通センターとしての役割が強化
⑤政治・宗教センターの役割
⑥食料など、自給でなく外部に強く依存

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5.大規模環濠集落は都市か
大規模環濠集落は、あくまでも農村で、都市ではない。(笠井先生)
(遺跡の見方より)
・政治・宗教・経済のセンターではない
・外部依存性は弱い(地産地消、自給自足)
・人口は多くない(数百人)
・後に続く継続性がない(古代都市にはならなかった)
王権形成が進み、古墳時代に入ると、首長層は共同体の外部に居館を置くようになり、環濠集落は解体される。

(注)但し、大規模環濠集落と「弥生都市論」については結論が出ていません。
・都市と認定しようとする説
・都市に近づいていく段階的なものとしてとらえる説
・奈良・纏向遺跡を最古の日本型都市として認定する説など

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(%ノート%) 前期講座(歴史コース)の次回講義(案内)
・日時:4月10日(火)am10時〜12時
・演題: 「木簡からみた飛鳥・藤原京」
・講師: 和田 萃(わだ あつむ)先生(京都教育大学名誉教授)
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