(写真はマイクのテストに使われる明珍火箸・大分県日出町)——->
2012年4月7日
「伝統の技 風鈴に生きる」
<火箸が奏でる理想の音>
火箸の風鈴があるとは知っていたが、どこで作られているのかは知らなかった。昨年の9月、その明珍(みょうちん)火箸の記事が新聞に載り、姫路の明珍家で作られていると知った。その姓は、12世紀の半ば、近衛天皇が甲冑(かっちゅう)の触れ合う音を、「音響朗々、光明白にして玉の如く、たぐいまれなる珍器なり」と称賛したことから、明珍の姓を賜ったと伝えられる。
そこで、明珍火箸が作られている工房をどうしても見学したくなり、先日、明珍本舗へ電話を入れた。明珍家52代目明珍宗理(むねみち)さん(70)の三男、敬三さんに見学の許しをお願いすると快く受けてくれたので、4月5日、工房を訪ねることになった。当日の午前7時30分工房に着いた時、すでに敬三さんは炉の前で火箸を打っていた。
工房の入り口から声をかけると仕事の手を止め、道路に面した玄関まで出てきてくれた。挨拶を済ませると、工房横の事務所へ案内された。火箸の製法や窓際に吊るした風鈴の説明をした後、また炉の前で槌を振るい始めた。写真は撮っても構わないと許してくれた。邪魔にならないよう、しばらくの間火箸づくりの様子をじっと見つめていた。
左手に握ったヤットコで、真っ赤に燃える炉から火箸を取り出して、金床の上に置く。右手の鎚で火箸をたたいて形を整えていく。敬三さんの鎚を打つ回数を数えた。何度数えても、80と数回。しかし、リズムと打つ力は一定ではない。火箸の冷えていく温度に合わせて微妙に変わる。時折、炉にコークスをくべて、炎の温度を保つ。
やがて、敬三さんが話しかけてきた。なぜ火箸の風鈴に興味を持ったのか。明珍火箸をどうして知ったのか。私が答えていると、敬三さんが奈良・桜井市に住む刀鍛冶へ修行に行ったことを話してくれた。そして、島根県横田町で製造する玉鋼(たまはがね)の話も。材料棚に置かれていた玉鋼を取ってきて、私に渡してくれた。テニスボール1個分ほどの大きさで、手の平に乗せるとずしりと重かった。
再び事務所に案内され、敬三さんが店頭にある風鈴を揺らしてくれた。初めて火箸風鈴の音を聴いた。4本の火箸の音が微妙重なり、澄んだ響きは鈴虫の鳴く声に似る。ほどよい長さの余韻が実に心地よい。火加減、打ち加減で、普通の火箸に美しい響きが宿る。
ここで、火箸風鈴にまつわる話を少しだけ。明治維新で禄を離れた時に、48代目の宗之さんが甲冑師の余技として作っていた火箸に目を付け、家業を長らえさせた。しかし、第二次世界大戦で大きな打撃を受けた。材料の鉄や道具類は軍部に供出させられた。さらに、高度成長期の燃料革命で火箸が使われなくなり、家業は苦境に陥った。
まさにどん底の1960年に、52代目の宗理さん(70)は高校を卒業し家業に就いた。「早く一人前になって、50代以上続いた明珍家の技を何とか伝えなければ」、という使命感でひたすら槌を振るった。そして、鍛錬の技が身に付いた頃、火箸がぶつかり合う時の音を聴き、火箸を風鈴にできないかと思いつく。
火箸を何本か糸でぶら下げたが、重い火箸はちょっとした風でも触れ合わない。試行錯誤の末に、火箸を4本にして、その真ん中に振り子を吊らした。そうすると、軽い振り子はわずかな風にも揺れて火箸とぶつかる。火箸が四方を囲んでいるので何処から風が吹いても鳴り響く。1965年、苦労の末に出来上がった火箸風鈴は店に並べた途端に客がつき、全国に知られるようになった。
そこで、ひたすら鎚を振るい続けた明珍家の技が、現在の社会でどう活用されているかを、次に紹介させていただきたい。冬の火箸が夏の風鈴になった。明珍さんの工房でそう思いながら、幼い頃、我が家の近くにあった鍛冶屋さんを思い出した。この夏は庭に打ち水をして、風鈴の音を楽しむとするか。夏の楽しみが一つ増えた。
(写真は鎚で火箸を打つ明珍敬三さん)—–>
『<響 ひびき紀行> 明珍火箸』
「類いまれなる箸の声」
2011年9月17日付け朝日新聞より引用
その音だけをとらえるために、四方の壁は雑音をのみ込む吸音材で覆ってある。部屋の真ん中に据えたマイクの前には、スタッフが糸で垂らした長さ40センチほどの鉄の棒が2本。軽く触れ合わせる。澄んだ金属音のあと、鈴虫の音色を思わせる柔らかな余韻が、揺らぎながら長く続いた。
ソニーの子会社、「ソニー・太陽」(大分県日出(ひじ)町)でレコーディングマイクの性能を試す測定作業のワンシーンだ。広い音域を余すところなく拾い、再現できるか。技術者が生の音とマイクを通した音を聴き比べる。音源に選ばれたのは、兵庫・姫路産の明珍火箸。
その名のとおり、本来は囲炉裏や火鉢の炭を挟むのに用いるが、ソニーは火箸が奏でる音に着目した。「触れ合った瞬間の強い音、幅の広い余韻。この二つを併せ持った音源は、ほかにありません」。担当の森崎哲也課長(40)は言う。
オルゴール、拍子木、カスタネット・・・・・。試行錯誤の末、数十年前に見つけ出した音が、プロ歌手が使う高音質マイクの開発を陰で支えてきた。涼を運ぶ風鈴、楽曲や映画の効果音にも使われている不思議な火箸は、今や音の名器だ。それは千年の時を超えて伝統の技を継承してきた、小さな工房で作り出されていた。
(写真は工房で作業をする叔父さん〈右側〉と敬三さん)–>
◆「焼いて たたいて 進化して」
兵庫県姫路市に明珍火箸の工房を構え、製造から箱詰めまで一家で担う明珍家は、古くから甲冑作りに携わってきた。その姓は、平安時代に近衛天皇が甲冑の触れ合う音を、「朗々とし、明白にして、たぐいまれなる珍器」と評したことに由来する。
家業は時代とともに形を変えていった。明治維新とともに武士の時代は終わった。甲冑は不要となり、火箸づくりに軸足を移した。戦後、石油ストーブなどの普及で需要が減ると、今度は音の美しさを前面に出し、風鈴として売り出した。
作業は今も、昔と変わらぬ手作業だ。一本一本の鉄を、千度前後まで炉で熱する。金床の上に置き、鎚(つち)でたたいて少しずつ形を整えていく。1日につくるのは30組が限度だ。
作曲家の冨田勲さん(79)も、その音に魅せられた一人だ。木村拓哉主演の映画、「武士の一分」(2006年)の冒頭のシーンで、火箸の音を使った。映画のタイトルに合わせ、ゆっくりとしたテンポで繰り返し鳴らす。「映画の世界に引き込む緊張感と美しさがある」と採用した。
応用も進む。時計メーカーのセイコーウオッチは、グループの創業130年を記念して12月、明珍火箸の音色で時を告げる腕時計を販売する。音源には、明珍家手作りの部品を組み込む。1個3465万円。今年度の生産は3個限定の希少品だ。
兵庫県姫路市の介護老人保健施設では、火箸を応用した楽器を音楽療法に用いる。「心安らぐ音。聴く人の表情がなごやかになる」。導入した兵庫県立大学の桑田陽子准教授は言う。
約40年前、旧姫路工業大学(現・兵庫県立大学)で泉久司教授(鉄鋼材料強度学、故人)が音の秘密を追求した。「一定の温度の範囲内で金槌を打つ力と数が、適正に配分された鍛造技術」が音を生みだし、それは、「明珍家代々が長年にわたって見いだした」と評した。
明珍家52代目の明珍宗理さん(69)は、半世紀にわたり鎚を振るっている。手のひらには直径3センチほどのたこがある。「鎚で鍛える回数が多くても少なくてもだめ。理想の音にたどりつくまで10年かかりました」。今夏は節電でエアコンを控えた影響からか、例年より1、2割多く売れた。残暑の軒先で揺れる明珍火箸を見やりながら、ゆく夏を惜しむ。(篠健一郎)