殷墟の発見

日 時 平成24年5月28日(月)
場 所 園田学園女子大学
講 師 桐藤 薫氏(園田学園女子大学講師)
 中国の初期王朝は「夏」と言われ、次に「殷(又は商)」が
出現しますが、今までは伝説や歴史書の中の国にすぎな
かったのが、1900年頃に殷墟(殷王室の墓、都の跡では
ない。)が発掘され、俄然信憑性が出てきました。
 伝説では夏王朝の17代目の傑王が美女・末喜に溺れて
政治を省みず、諸侯の一人であった殷の13代目の湯王がこれを滅ぼしたことになっています。
 もっとも、司馬遷の『史記』の「巻七・項羽本紀」には、楚の項羽が秦の章邯と和議の交渉を進めるくだりに、「殷墟」なる文字が出てくるのですが、それがどこなのかは特定されておりません。
 しかし20世紀になって河南省安陽市小屯村において、おびただしい数の青銅器・玉器・武器等が発見され、それらに当時の甲骨文字が刻まれていたことから、殷の実在が証明されることになります。
 甲骨文字とは、当時は牛の肩胛骨や亀の甲羅等に刻み、熱することで生じるひび割れを見て占うもので、内容は狩り・収穫・気象・征伐・開墾・疫病等々、主に人間(主として王様)と神とのコミュニケーションに使用されていたものです。
 殷王朝は現在の中国のような統一国家ではなく、あくまでも諸侯の盟主にすぎなかったようです。
 (写真は、発掘された「殷墟」です。)