屯田兵制度とアイヌ政策

日 時 平成24年6月1日(金)
場 所 園田学園女子大学
講 師 松山利夫氏(平安女子学院大学特任教授)
 明治維新を経て新政府は北海道開拓を国家事業と位置付け、
函館(その後札幌へ)に開拓使を設置いたしました。
 これは北海道開拓をメインとしながらも、失業武士の救済や
対ロシア防衛という側面もありました。(屯田兵)
 開拓は石狩川流域から始まり、徐々に東へと広がりました。
 当時はまだまだ交通の便が悪く、輸送手段も船に頼っていた関係から湾岸部を中心に開拓が進んだようです。(琴似・江別から室蘭・根室へ、写真は屯田兵屋)
 北海道の人口推移を見ますと、明治6年には道民11万人・アイヌ1.6万人、同16年には道民23万人・アイヌ1.7万人、そして同21年には道民35万人・アイヌ1.7万人と本土(松前を含む)からの流入が倍々ゲームで増加しています。
 もっとも移住してきたのは何も武士ばかりではありませんでした。
 たとえば、明治17年には広島市南区の25戸が開拓のため集団移住していますし(現北広島市)、明治22年には奈良県十津川村の人たちが水害により集団入植した(現新十津川町)という記録もあります。
 このような中、政府はアイヌ政策として明治32年に保護法を制定し、土地の下付や農具・種子・薬の支給等を行い、狩猟・採集・漁業中心の生活から農民化を進めました。