被災地では認知症が激増と国会議員の視察報告を聞いて、なんとかスリーAの「脳活性化ゲーム」で、ひととき笑って元気になっていただきたいとの念願が叶って、6月15日に京都を出発し、仙台で一泊。翌朝7時に仙台始発の高速バスに、朝食用お弁当を持って乗り込み、「出発オーライ」で気仙沼市を目指しました。
被災地でのパラソル喫茶バスツアーに、顔ぶれをかえて計3回参加した時とは全く違う活動でした。
宮城県気仙沼市で被災されて避難所生活もされ、今は気仙沼にある百ヶ所近い仮設住宅のうちの25ヶ所、個人宅100軒をボランティアで支援されている村上充さまと、対話法研究所の活動を各地で展開しておられる群馬県桐生市在住の浅野さま、お二方の縁繋がりで実現した今回のスリー方式認知症予防ゲームでの「笑って元気に」を持ち込むボランティア活動は初体験で、逸る気持を抑えて、気仙沼市にある仮設住宅の一つ「反松公園仮設住宅」に伺いました。子どもから90歳までの方が参加してくださって、スリーA方式の脳活性化ゲームを皆さん一緒に体験していただきました。
インターネットとはとてつもなく不思議なものです。気仙沼市⇔群馬桐生市⇔京都宇治市、八幡市を瞬時に結び、準備段階では全ての打ち合わせはメールのやり取り、それぞれのブログやホームページで思いも感じ取れ信頼関係も出来ていて、初対面とも思えない懐かしい方にお会いした気分でした。
仙台で浅野さま、気仙沼では当日は過密スケジュールの村上さまに代わって地域のボランティア代表の菊田さまに、気仙沼港の被災地とその状況を説明しながら案内をしていただきました。
村上さまとはその後、反松公園仮設住宅でお目にかかりました。
今回のボランティア旅の途中で
「被災地が忘れ去られていることをひしひしと感じるから、被災地を見てほしい、
京都に帰ったら、この状況を伝えて欲しい、忘れないで欲しい〜」
と、仮設住宅でも仙台でも何人もの方から言付かりました。それで、見たこと感じたことを漏れないようにブログで発信します。長くなりそうですが、読んでください。
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気仙沼港(菊田さまの案内)
「波がこの辺りまで上がってきた」という場所は港からずいぶん高いところ。湾には、船着場、魚の水揚げ場、魚介類の加工場、魚市場などが被災されたそのままで解体を待っている姿がまだ多く見受けられました。
少し平坦な場所には関連の工場、住宅があったようですがそれは土台の敷石を残した状態で瓦礫などは撤去されていました。
ビックリしたのは350トンとお聞きした漁船が打ち上げられたままの状態で置かれていました。当日は無数の船という船が波に乗って陸に打ち上げられて、建物にぶつかりながら、陸に上がってきたそうです。
打ち上げられた船のすぐ山側には電車が走っていて、駅も線路も波を被ったそうです。その面影はありませんでした。
車で案内していただいたのですが、主な道路がいち早く復旧されたそうです。走りながらの車窓の風景は・・・多くの港は所狭しと立ち並んだ家々が見えますが・・・気仙沼港は何にもなく、大きな建物の骨格を残したままの景色でした。
気仙沼港では、油のタンクや船のオイルが漏れて火の手が上がり、三日間燃え続けたとのことでした。自宅の二階や屋根の上で助かった方々からは、「その火が迫ってきていて怖かった」との話も有りました。
港近くに洒落た大きな建物は高齢者施設で、多くの方々が犠牲になったそうです。
逃げようとして自家用車に乗ったまま犠牲になられた方々も多く、波が来るのが早かったようです。車に乗るより二階だと助かった可能性もあるとも伺いましたが・・・。
案内してくださった方もご両親を亡くされていて、3・11当日から4日間たってやっと奥様との再会だったと伺いました。道路には船、車、壊れた家などなどで、自宅の場所に行き着けなかったそうです。
色々な被災状況を聴かせて頂き、うちのめされる気持で、言葉は出ませんでした。いま、自分が立っているこの場所は、当日此処には・・・と考えて身震いがしました。大きな船が打ち上げられてそのままの場所には、気仙沼市の縦看板があり
「多くの被災者の方々に配慮してくださいますように」
と書かれていました。
「復興屋台村」の看板はニュースにも出ていて知ってはいましたが、現在、土日には賑わうが、平日は閑散としているとのこと。港の住民はほとんど仮設住宅に仮住いされているのですから。ただ、波が1階だけに来たという家は修理をされて住まわれている港の山の手に少しありました。
取りあえずここまで つづく