『源平合戦』(治承・寿永の内乱)

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第4回講義の報告です。
・日時:10月2日(火)am10時〜12時10分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「源平合戦」 (治承・寿永の内乱)
・講師:若井 敏明先生(関西大学非常勤講師)
—————————————
「院政と保元・平治の乱」の復習(6月12日の講義(若井先生))
○院政:天皇が「上皇」や「法皇」となって実権を握り、国を統治するシステム
◆保元(ほうげん)の乱(1156年)…上皇と天皇の争い。鳥羽法皇の崩御をきっかけに勃発。後白河方の夜襲攻撃で崇徳方は大敗(わずか1日で勝敗決する)。武士の力を世間に知らしめる結果となる。
【後白河天皇・藤原忠道・源義朝・平清盛】 ⇔ 【崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠盛】
◆平治(へいじ)の乱(1159年)…後白河院政下の近臣である藤原家の間で派閥抗争。平清盛の勝利と源義朝の敗北。平家繁栄の基礎をつくった。
【藤原信西・平清盛】 ⇔ 【藤原信頼・源義朝】

*[後白河院]:鳥羽天皇の第4皇子。保元の乱で、兄・崇徳上皇を破り、譲位後、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽と五代30余年にわたって院政。
—————————————-

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%) 講義の内容
1.後白河院と平清盛
(1)平清盛の気配り
・当時の三つの勢力…「後白河」、「摂関家」、「寺院(延暦寺、三井寺)」
・清盛は、親政・院政両派の間を巧みに遊泳(どちらにもつかない)。また、寺社については延暦寺を支援(院近臣に対する延暦寺強訴の防御に消極的)。
(2)後白河院と平清盛の協力体制
・後白河院と対立していた二条天皇は崩御(23歳)(1165年(長寛2))
・1167年[清盛、太政大臣となる]→1171年[清盛の娘・徳子が高倉に入内]→後白河院と協調
(3)鹿ケ谷事件[1176年(安元元年)]
・平氏打倒の陰謀が露見。後白河院と清盛の対立表面化
(4)清盛のクーデター[治承三年(1179)の政変]
・清盛は、福原から数千の武士を引きつれて入京し、クーデター
・反平氏派の公卿・院近臣の解任。後白河院の鳥羽殿幽閉
「平家王朝」の構想(安徳天皇即位、高倉院政、福原遷都)(実権は清盛が掌握)
(5)治天の君(ちてんのきみ)(国を治める最高権力者)
・院政における天皇は飾り物
・清盛のクーデターで、後白河院=(治天の君)が政務を停止され、幽閉された。新たな王権は、高倉が退位して治天の君となり、安徳天皇が即位した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.源平合戦(治承・寿永の内乱)
*(学界では「源平合戦(内乱)」を当時の年号をとって治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱とよんでいる)
*右の資料は、「東国武士団の分布」です。
以仁王・源頼政の挙兵[1180年(治承四年)5月]
・以仁王の平氏追討の令旨(4月)(各地の源氏に通達)
・以仁王(もちひとおう・後白河院の皇子)を奉じて、源頼政(よりまさ)は挙兵し、平知盛・維盛の攻撃を受け宇治平等院で敗死。
東国源氏の挙兵
★伊豆の源頼朝…【石橋山の戦い】(1180年8月:頼朝挙兵後、初の合戦。平氏方の大庭景親(おおば)らに敗北し、海路、房総半島の安房に逃れ、千葉の勢力を集める。)⇒【富士川の戦い】(1180年10月:富士川両岸に平維盛(これもり)率いる追討軍と頼朝軍が対陣。平氏軍は水鳥の飛び立つ羽音を敵の来襲と誤認し潰走。)
*(注)東国源氏は同時多発的に挙兵したが、連携(つながり)はない。頼朝の挙兵はたまたまであったという説もある。
*[源頼朝(1147−1199年)](源義朝の3男。清盛の義母・池禅尼に嘆願により1160年伊豆に配流。1177年頃、北条時政の長女・政子と結婚。)
清盛の死去
・1181年:閏2月4日、清盛、熱病に倒れ、忽然と死去。享年(64歳)
・1181年:高倉院の崩御→清盛の後継者・平宗盛は後白河に謝罪し政権の返上、後白河は政界に復帰。
養和の大飢饉(1182年)と戦局の膠着
・畿内・西国の平氏、東国の源頼朝、北陸の源義仲、東北の藤原秀衡の4強が拮抗
源(木曾)義仲
・1183年(寿永2)5月【倶利伽羅峠(砺波山)の戦い】(義仲、北陸道で平氏軍を大敗)
・1183年7月…義仲、入京。《平氏、都落ち⇒安徳天皇と三種の神器は伴ったが、後白河は同道しなかったことが、平氏は賊群として追討の対象になる。)

*(注)源頼朝の軍事的優位性が確立されたのは、1184年(寿永3)2月の一の谷の戦い後である。←(平家は、都落ちしたが、九州から勢力をより戻し、神戸まで盛り返していた。)

義経の戦争
・1184年(寿永3)2月…【一の谷の戦い】
・1185年(元暦2)2月…【屋島の戦い】
・1185年(元暦2)3月…【壇ノ浦の戦い】
*「王権との関係」
・治天の君である後白河院から平氏追討の勅命をうけた源頼朝は、源範頼(のりより)・源義経軍を派遣した。(範頼と義経は共同作戦であったが、義経は戦上手で、手柄は義経ばかり。)
・安徳天皇を入水で死なせたのは、大きな失敗。
・[源義経(1159−1189年)]:源義朝の9男。木曽義仲を討ち入洛。平氏追討に大功あり。頼朝の許可なく、後白河院より検非違使、左衛門少尉の官職を受けるなどして、兄(頼朝)と不和。

*平氏は、治承三年(1179)の政変(清盛のクーデター)から四年足らずで都落ち、五年後に滅亡した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3.頼朝の二面性
・後白河院政(王朝国家)の侍大将…後白河院(王権)の擁護者として行動。
・関東武士団の棟梁…関東の武士をまとめる(関東の地盤作り)
 ↓
*これは鎌倉幕府の性格ともかかわってくる。⇒鎌倉幕府は地方に成立して、独自の支配地域を有するとともに、軍事という独自の職能を帯びた権門となった。