『二上山 大津皇子墓への誘(いざな)い』(PartⅡ−考古資料からみた実像)

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第7回講義の報告です。
・日時:11月6日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「二上山大津皇子への誘い」(Ⅱ−考古資料からみた実像)
・講師:上野 勝己先生(元太子町竹之内街道歴史資料館館長)
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前回 「Ⅰ-文献史料からみた実像」の復習 (5月15日の講義(上野先生))
○二上山雄岳山頂には、葛木二上神社と並んで大津皇子の墓がある。また、一説に皇子の墓は山麓にあるといわれる。
・文献史料から大津皇子の二上山改葬は、定説化されている処刑(686年10月)翌春などではなく、40年後の720年代後半と考えられる
・文献史料:日本書紀、万葉集、懐風藻、薬師寺縁起など
・大津皇子謀反関係(日本書紀)…朱鳥元年(686年)9月9日[天武天皇崩御、皇后称制(持統天皇)]→10月2日[謀反発覚、大津皇子逮捕]→10月3日[大津皇子賜死」
持統天皇の後裔(子孫) (男性は、聖武天皇を除き若くして死去)⇒ 大津皇子の怨霊を強く意識し、神の山、二上山へ改葬した
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.二つの大津皇子墓説
(1)第1説〜二上山雄岳山頂の“大津皇子二上山墓”説
・(昭和40年代後半)…考古学者からは、二上山雄岳山頂の墓を大津皇子墓とは言われなくなった
【第1説の問題点】
①『大和志七』(並河永著)(享保20年(1735))
大津皇子墓の初見史料です。約1000年後に大津皇子墓が初見されることが、事実なのか。
②大正14年(1925)の『陵墓誌 古市部見廻区域内』には、「大津皇子墓は、もともと20余坪。老松の下に一基の石灯籠あり。明治5年の80坪に拡張、二上神社より買上らる。」とあり、ここが本当の大津皇子の墓とは思えない。


(2)第2説〜二上山東麓の“鳥谷口古墳=大津皇子墓”説
・学説
-河上邦彦氏「鳥谷口古墳と大津皇子」(昭和63年)「鳥谷口古墳は、七世紀後半から末に築かれた改葬墓であり大津皇子の墓である条件を備えている」←改葬時期が720年代後半とすると時代が合わない。
-奥田昇氏「大津皇子の仏たち」(平成5年)「鳥谷口古墳は、一辺7.2m、高さ2.1mの方墳で・・・石棺材を寄せ集めて、急場しのぎで作った」←改葬でしかも怨霊の祟りをおそれるのであれば、急場しのぎで作らない
【第2説の問題点】
①河上邦彦氏『大和の終末期古墳』(平成17年)
「。・・・かつて私は、鳥谷口古墳を大津皇子の墓の可能性があると述べた。・・・保存してもらうために私説として大津皇子の墓としてA新聞に報道してもらったことがる。」
②松下宗彦氏「大津皇子陵墓考」(昭和46年)
「万葉集にみえる、葬った山を見て亡き人を忍ぶ〜という型は、728年〜744頃に歌が作られた。大伯皇女(大津皇子の姉)が二上山の歌を作ったときから約40年またはそれ以上の隔たりがある」 
・大津皇子二上山墓唯一の基礎史料… 『万葉集』 165・166歌
(題詞)大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀しびて作らす歌二首
*「うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を弟世(いろせ)とわが見む」(巻二・165)
*「磯のうえに 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに」(巻二・166)
⇒上記の歌は、大伯皇女の名前を騙って720年頃に作られたと考えられる。

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2.第3説の提起〜掃守寺の堂塔跡と出土骨壷
○「掃守寺(加守寺)」
720年〜30年代の有力者の死に伴う追善供養
・「寺院の建立」(建立時期:1周忌、同年、改葬時)、大般若経の書写
六角堂発掘
・1994年(平成6年)発掘…出土瓦から8世紀初頭から中頃。寺の建立・維持・管理に国家が関与
・薬師寺と同じ規模であった。
・石野博信氏−「普通の氏寺とは思えない。大津皇子の供養塔ということもある」
『正倉院文書』にみえる掃守寺関係文書
・伊福部男依(掃守寺別当)という人が、天平20年(748年)に写経、天平勝宝2年(750年)に塔を建立し、大般若経を奉納している。
加守出土の金銅骨壷
・「火葬骨が収められていた。副葬品や墓誌はなかったので誰の墓か判明しないが、金銅骨壷としては非常に立派なものである。」(網干善教氏)
『醍醐寺本薬師寺縁起』の大津・大伯姉弟記事
・大伯皇女…昌福寺。神亀二年(725)建立−父(天武天皇)の供養のために建立
・大津皇子…龍峯寺(掃守寺)。朝廷(修円)が建立。大津皇子の鎮魂のため建立
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3.まとめ
大津皇子は、686年処刑、土葬されていた。約40年後に火葬して、加守寺に改葬された。
・二上山は神域。山頂であれ、山麓であれ、謀反人を葬るのだろうか。⇒今日の講義は、「二上山山頂大津皇子墓説」、「二上山東麓の鳥谷口古墳の大津皇子墓説」の問題点を指摘し、いろいろな角度から 「加守寺火葬墓(骨壷)大津皇子説」を提起された、休憩なしの二時間の熱い講義でした。
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(%ノート%) 連絡事項
12月4日(火)の講義−「古代の難波と難波宮」(中尾芳治先生)
「当日のレジュメは、前回[5月8日(火)]に配布したものを使用しますので、継続して受講されている方は、ご持参下さい。」