奈良の大仏を焼いた 「平重衡とその妻」

日 時 平成25年2月19日(火)午前 の部で実施
場 所 宝塚市男女共同参画センター
主 催 まなびの会
講 師 からあい企画の皆様
 平清盛の5男。 5男坊でありましたが(そのキツイ性格)が
清盛に信頼され、治承4(1180)反平氏勢力に立ち向かう、
南都攻撃の総大将になった。 そして、清盛の命令であの
東大寺・興福寺を消失させました。 しかし、治承4の焼き
討ちを残念がりそれを恨む人も数多く、全国的に反平氏の原動力ともなりました。
 元歴1年正月(84)、一の谷の合戦で平氏は大敗し、重衡は捕えられ身柄は京に護送されます。
 そこで兄・宗盛に三種の神器の返還等を進言しますが拒否され、自身はさらに鎌倉へ送られます。 
 元歴2(85)屋島の合戦ののち、平家は壇ノ浦(現在の山口県下関市)で滅亡します。 
 文治元(85)鎌倉から処刑のため護送される途中、日野(大津から山科を経てる醍醐路です)で正妻・輔子と再会し涙の決別をしたのは歴史に詳しい人なら知っていますが、我々世代は初めて学ぶことも多く大変勉強になりました。 
 さて、重衡は東大寺及び興福寺を焼失させましたが、その一方で文武両道に秀でた平氏随一のイケメンで和歌・琵琶・笛にも長けていた人でした。
 なお輔子は夫の死後、寂光院において隠遁中の建礼門院に終生奉公したとのことです。