『西鶴を読む』〜天晴れ、若衆の敵討ち〜

(%紫点%) 前期講座(文学・文芸コース)の第3回講義の報告です。
・日時:3月21日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:「西鶴を読む」… 『武道伝来記』〜天晴れ、若衆の敵討ち〜
・講師:高橋 圭一先生(大阪大谷大学文学部日本語日本文学科教授)
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*井原西鶴について 《右は、西鶴肖像画(芳賀一晶筆)です。》
・寛永十九年(1642)〜元禄六年(1693)。
・俳諧師・浮世草子作者
・大坂に生まれ、大坂に住み(現中央区鎗屋町)、大坂の本屋から自作を刊行し、大坂に墓も現存する(誓願寺/中央区上本町)、江戸時代屈指の町人作家。
・代表作…『好色一代男』、『好色五人女』、『本朝二十不孝』、『武道伝来記』、『日本永代蔵』、『世間胸算用』など
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☆高橋先生の講義『西鶴を読む』は、今回で第3回です。
第1回(平成23年3月):『世間胸算用』〜今も昔もお金の苦労〜
第2回(平成24年3月):『万の文反古』〜京都(みやこ)に美女は多けれど〜

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(%エンピツ%) 講義の内容
*『武道伝来記』*
・貞享四年(1687)四月刊。全八巻で、各巻それぞれ四話、全三十二話。
・町人である西鶴が武家に取材した、いわゆる「武家物」の第一作。
・三十二話、全てに敵(かたき)討ちが描かれている。もっとも内容は、首尾よく敵を打つ成功譚ばかりでなく、返り討ちにあったり、敵討ちと認められず処刑されたり、相討ちになったりと種々様々である。西鶴の話づくりの上手さが存分に発揮された傑作が多い。

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○「一指(さし)ゆびが三百石」 『武道伝来記』(巻三の一)
〈内容〉
1・物語の前半(徳岡伊織、73歳。三百石の知行のまま、今まで加増がなかった、律気で昔気質の男の話)
「五月五日、伊織が殿の御前に罷り出たとき、伊織の人さし指がないのを殿がご覧になって、“其方の指は” と仰せられ、伊織は“若い時の過ち”とだけ申し上げた。・・・ちょうど豊田隼人という大目付がそこに居合わせて「伊織の指の事は…同じ家中の島本権左衛門の留守宅に夜盗が忍び入り、財宝を取り、老婆を殺し、裏道から逃げたところに、折りよく伊織が通り合わせた。伊織は、賊を二人捕らえて両脇にはさみ、若党の追いつくのを待ちうけていたが、賊は苦しさのあまり、伊織の指を食い切りました。この時、伊織は十八の時。–殿は、“若年の働きとしてはよくやったものだ”と、即座に三百石の御加増を賜った。」

2.後半の物語(伊織の養子になる亀石仁七郎の敵討ちの物語)
(1)藤村佐太(さだ)右衛門の雑言
「いいかげんな藤村佐太右衛門が、“近ごろ耳新しい話といえば、仁七郎が伊織の養子に行くことに決まったことだ。この若衆も兄分に指を切ってやったというから、そのうちにまた三百石御加増があるだろう。十本切れば三千石になる。–言って大笑いした。」
(2)仁七郎の兄分(駒谷木工左衛門)の敵討ち
・佐太右衛門の雑言が、仁七郎の兄分の木工左衛門の耳に入った。これにはがまんできず、病後で足もふらふらしていたが、仁七郎にも知らせないで、藤村佐太右衛門に果たし状をつけた。相手が大勢なので、木工左衛門は、討たれてしまった。→佐太右衛門は、他国に逃げて身を隠した。
・(注)木工左衛門は、男色の契りを交わした仁七郎の兄分。[念者(兄分)⇔若衆(弟分)]。江戸時代、男色はアブノーマルではない。

(3)仁七郎の敵討ち
・仁七郎は、小道具売りに身をやつし敵を探す。【(注)小道具売り−刀の付属品(目貫、小柄など)を編笠被き売り歩く】…歩き回ってようやく佐太右衛門の有所を聞き出した。
・ところが、佐太右衛門と内海丹右衛門が、将棋で口論となり、果し合いをすることになった。→それを聞いた仁七郎は、「もしも佐太右衛門がその相手に討たれてしまえば、長い間の大願(敵討ち)が無駄になってしまう。」と、刀をつかんで飛び出した。
・果し合いの場にいくと、内海丹右衛門が大勢の家来を召し連れ、やってきた。仁七郎は礼儀正しく挨拶して、“私の兄分の敵ですから、佐太右衛門は、私に討たせてください。”→ところが、相手は道理をわきまえぬ武士であった。“自分が相手にする男を、横取りするとは無礼な小僧だ”。・・・仁七郎は、たまりかねて、斬ってかかり、丹右衛門の首を落とした。
・敵討ちの佐太右衛門がやってきた。仁七郎は名乗りをあげて斬ってかかった。…首尾よくとどめを刺した。→佐太右衛門・丹右衛門の二つの首を、長刀に貫き小者にかつがせ、それを本国の土産にして帰ったという。

3.あとがき
(1)高橋先生『武道伝来記』ノートより
○徳岡伊織が刀を抜かなかったこと。→素手でもって捕り押えたのは、切り捨てるよりはるかに勇気ある行為。指を食い切られても離さなかったのは心の剛なるが故である。
また、人差指は伊織の心の剛を象徴するものであっても、指の代償として三百石が与えられたわけではない。指一本が三百石と曲解して伊織を貶(おとし)めたのが、藤村佐太右衛門であった。
○巻三の一「一指ゆびが三百石」は、兄分駒谷木工左衛門の敵を討つと同時に、養子に行くことが決まっていた伊織の受けた恥辱も雪いだのである。こうして、仁七郎は養父伊織に恥じない武士であることが証明された。
(2)井口洋一氏『武道伝来記』−敵討ちの決断ーより
○丹右衛門は、敵討ちと「当座の義(儀)」(事の起こりが将棋での口論)との区別がつかない「道理をわきまえぬ武士」で、仁七郎が首を取って本国に土産にして立ち帰ったことはいうまでもない。
(3)その他
・果し合いでは、一対一で戦う。助太刀は卑怯。
・いったん刀を抜いたら、戦う。(めったに刀は抜かない。)
・「それを頼みます」と言われたら、”助ける”のが基本。