第20回 大久保忠教(1560〜1639)

第20回 大久保忠教(1560〜1639)
 
日本人と鰹の関わりは古く、縄文時代の貝塚からも鰹の骨が発見されている。その鰹からつくられる鰹節もまた、貴重なタンパク源として古くから私たち日本人の食を支えてきた。

 その鰹節と関連が深い人物が、江戸初期の旗本で「天下のご意見番」とも称される大久保忠教(1560〜1639)である。講談では、通称の彦左衛門の名で親しまれ、3代将軍・家光にたびたび諫言をしたり、旗本以下の輿(こし)の使用が禁止された際には大だらいに乗って登城したりと、数々の逸話が語られている。

 その彦左衛門は晩年、徳川家とそれに仕えた大久保家の歴史をまとめ、自著『三河物語』に書き記した。そこでは、当時の武士の生活や食文化について記述がされており、彼が鰹節をことのほか重用していたことがわかる。

 今回は、三河(現在の愛知県)武士・大久保彦左衛門の生涯を通して、鰹節と日本人の食生活がどのように関わってきたのかを見ていきたい。

大久保彦左衛門肖像(長福寺 提供)

 三河の戦国大名・徳川家康(1543〜1616)に仕える武家の八男として三河に生まれた彦左衛門は、兄・忠世(1532〜1594)らとともに家康に仕え、各地を転戦し武功を挙げていく。

1585(天正13)年の上田城攻め、1590(天正18)年の小田原攻めなどで活躍し、兄・忠世が小田原城主に任じられた際には彦左衛門も3,000石を与えられた。その後も関ヶ原合戦や大坂の陣など、徳川家の存亡を賭けた重要な合戦では、本陣を守る槍奉行として参戦している。家康没後も2代将軍・秀忠、3代・家光に仕えた彦左衛門は、晩年に生涯の記録として『三河物語』の執筆に取り組む。

 上中下の3巻からなる同書には、徳川家の下での数々の戦の記録や、太平の世になって以降、彦左衛門が抱えていた不満や想いといったものが記されている。戦国が終焉を迎え徳川家が統治する世が訪れると、彦左衛門のような忠義を第一に武勇一辺倒で働いてきた家臣は徐々に居場所を失い、領国経営を担う官僚型の人材が重用されるようになる。

これまでの功績ある武士ではなく、新参の文官が重用される風潮に対して、不平や寂しさを書き綴った彦左衛門だが、これが同じように不遇をかこっていた武士たちの共感を呼び、写本が出回り多くの人々に読まれるようになっていった。

冒頭にあるような彦左衛門の豪快な逸話の数々は、後世に講談で脚色され創作されたものとされているが、『三河物語』に見られるような、彦左衛門の剛直で不器用な生き様が愛され、人々が親しみを込めて話をつくりあげていったのかもしれない。

『三河物語』(静岡市立清水中央図書館 提供)
彦左衛門が晩年になってから子孫に向けて残した著作であるため、家訓的な色合いが強い。徳川家と大久保家の歴史を記す一方で、子孫へは徳川家への変わらぬ忠義を強く訴えている。細部に創作はあるものの、当時を知る一級品の歴史史料として広く読まれている。

 一方で『三河物語』では、当時の武士の生活についても述べられている。奉公のため親族は多くが戦死し生活は苦しかったこと、家族が食べるものといえば麦や粟、稗の粥であったことなどがうかがえ、また、武士にとって鰹節が欠かせなかったことも記されている。「鰹節=勝つ男武士」とも通じることから、縁起物とも考えられていたという。

 刃物で削ることで手軽に食べられ、持ち運びに便利で必要な栄養素も取れる鰹節は、行軍の際には兵糧食として重宝された。同著の中で「鰹節の上皮を削って帯にはさみ、戦の前やひもじいときに噛めばことのほか力になる」と書き残しているように、出陣の際には鰹節を帯に挟んでいったようだ。

 また、彦左衛門と鰹節の繋がりを示す次のようなエピソードも伝わっている。ともに家康に仕えて武功を競い、彦根藩祖となった井伊直政(1561〜1602)が病気をした時のこと。病床の直政を訪ねた彦左衛門は、「自分は鰹節を食べているため、すこぶる元気である。

身分が上がって贅沢が出来るようになっても、鰹節を食べるように」と、鰹節を持ち寄って朝夕に食することを勧めたという。この時代には珍しく、80歳まで生きた彦左衛門。その健康の秘密は、ひとつには鰹節にあったのかもしれない。