井伊直弼の続きです。

井伊直弼の続きです。

 反対派を容赦なく弾圧したその政治姿勢から、「井伊の赤鬼」とも恐れられた井伊直弼は、1815(文化12)年に譜代大名の筆頭・井伊家の14男として生まれた。

 兄弟が多かったこともあって、32歳になるまでは部屋住みとして生活していた直弼だが、国学を学ぶかたわら、和歌や鼓、槍術、砲術など多岐にわたる分野で際立った才を見せ、茶においては一派を確立するほどであった。

1850(嘉永3)年に兄たちの死をうけ家督を継ぎ、彦根藩15代藩主として幕末の表舞台に立つことになった。

 以降の直弼は、藩内においては積極的に藩政改革を行う一方、将軍継嗣問題や黒船問題といった幕末期の混乱の中で、重要事に関し幕閣に諮問を受ける溜間詰上席として国政に携わっていった。

 やがて政界における主導権争いが激化すると、外交政策などをめぐり水戸藩主・徳川斉昭(1800〜1860)らと激しく対立。老中首座であった阿部正弘(1819〜1857)が死去すると、直弼は将軍の補佐役である大老に就任する。

桜田門外之変図(茨城県立図書館 提供)
「桜田門外の変」発生以前から、井伊家には警護を増員するよう通達がされていた。しかし直弼は、大老が失政の批判に屈したとの風評を招くと判断し、あえて強化をしなかったという。

 大老に就任した直弼は、将軍継嗣問題で自らと相容れなかった徳川斉昭らを処罰し、その後も幕政を批判する人物や攘夷派とされた者を次々と処刑していった。また、勅許を得ないままに日米修好通商条約に調印し条約を締結。反対した公家や大名、その家臣などを弾圧し、各方面から恨みを買うこととなる。

 こうした強権政治が引き金となり、1860(安政7)年3月、江戸城桜田門外において登城するところを水戸藩の脱藩浪士らに襲撃され命を落とした。いわゆる「桜田門外の変」である。

 その強引な手法が批判される一方で、開国を断行し混乱期の日本を主導したとの評価もあり、現在まで毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする直弼。では次に、その直弼や彦根藩と牛肉がどのように関わっていくのかを見ていきたい。