井伊直弼の続きです。

井伊直弼の続きです。

 太古から既に牛肉を食していた日本人だが、仏教が伝来して以降、やがて肉食は禁じられるようになり、天武天皇(631?〜686)が肉食禁止令を発したように、度々禁止令が出された。その背景には、仏教の影響だけではなく、労働力として貴重な牛を保護する目的もあったとされる。

 とはいうものの、のちに宣教師であるルイス・フロイス(1532〜1597)が「僧は肉も魚も食べないと公言しているが、裏では誰も食べている」と書いたように、人々の生活の中で肉食文化は続いていたようだ。

 江戸時代、牛肉は滋養強壮のもととなる薬とされ、江戸市中には、あくまで薬屋という扱いではあるものの、獣肉を扱う専門店もあった。牛肉には脂質やタンパク質が多く含まれ、必須アミノ酸がバランスよく含まれていることが分かっているが、当時の人々も牛肉に優れた栄養分が含まれていることを体験から知っていたのかもしれない。

 近江国(現在の滋賀県)の彦根藩では、甲冑づくりに使用する牛皮をつくる際に余った肉を味噌漬けや干し物として食していた。味噌漬けは「反本丸(へんぽんがん)」と呼ばれ、滋養強壮に効果のある薬とされた。

 その始まりについては、次のようなエピソードが残されている。17世紀末、彦根藩士である花木伝右衛門は江戸での在勤中、慶長年間に明(みん)から伝わった『本草綱目』を読む機会があった。そこには、「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を益し、脾胃を養い腰脚を補益す」と、牛肉の効用が記されており、それを参考に、牛肉を味噌漬けにした食を考案したのだという。当時、公然と肉食はできなかったので、薬のような「反本丸」という名を使ったのかもしれない。

大正時代には当時皇太子であった昭和天皇にも献上され、ますます広く知れ渡るようになった。もともとは日保ちさせるために味噌漬けにされたが、牛肉を味噌に漬けておくと、時間とともに硬い肉が軟らかくなり調理もしやすくなる。

 また、牛肉の干し物については、江戸前期の記録書である『御城使寄合留長』に製法が記されており「寒中に肉を割き筋を取り去り、清水に漬けて臭気を抜き、蒸してから糸につないで陰干しにする。寒中でなければ、寒明けの頃でも塩を加えなければ傷んでしまう。温暖な季節でも塩を多く使用すれば製造できるが、薬用としての性味が失われ、御用に立たない」と記録が残っている。

 彦根藩では以降、特に牛肉の味噌漬けを将軍家や各地の大名への贈り物とする習慣ができ、諸侯に大変喜ばれた。

 また、徳川斉昭が直弼に手紙を送ったという逸話も残っている。その内容は、牛肉を贈られたことに対する直弼への感謝を記したものや、後年直弼が牛肉の献上を中止した折に、斉昭がこれを催促したとするものといわれている。政治上、長きにわたって対立を続けていた両名の間で、牛肉をめぐるこのようなやり取りが行われていたのであろうか。興味深いエピソードである。