「障がい」今はこう表記することになってきていますが、いったいどれほどの人が障がいというものを理解しているか、私は実態表現からどんどん遠くなっていると感じています。障害の害の字は「社会から害されている実態」を表しているものだと私は思っているからです。

私が障がいについていつも言っている言葉「人は皆、障がい者」「障がいのある場所、程度、時間が違うだけ」。

障がいがあるからと言うことを理由として排除、違う扱いをしなければならないとしたら、人間全てがその対象になるのだと思っています。

私たちはひとりひとり違った存在です。

違う=悪い

ではありません。

違うからこそ、ひとりひとりが 「唯一無二の大切な存在」 なのです。

今の社会、特に学校は「同じ」であることを子どもに要求しています。

その一つの例が全国統一学力テストです。

すでにまったく意味がなく、いや、ある意味有害であることがすでに過去の経験で証明されている「学力テスト」とその使い方の間違いをまた繰り返しています。
お金がないといいながら何十億?もかけて害悪を撒き散らしています。

そもそもテストは何のためにあるものか?考えてみれば明白です。
「その子その子が何がわからないかを明白にする」そして「できないことをできるように」一緒に努力してゆくことです。

それを学校単位、地域単位でその点数の高低を問題視することに何の意味があるのか?まともな思考力を持った人間なら明白なことがなぜわからないのか、それこそ「何らかの思考をゆがめる障害」を持っておられるのではと疑いたくなります。

どんな場合でも1位があればべったもある。
その「順位」を上にします?
これは「ねずみ講」と一緒ですよね。
無限なんとかといっしょ。詐欺です。

例えば大阪。
失業率第1位ではなかったですか?
それを改善するほうがよっぽど子どもの成績は上がります。
なぜそうはっきりいえるか?
人は心が安定した状態のほうが思考力は高くなる。
これが証明されているからです。
いじめがあれば当然成績は下がるんです。
当事者だけのことではない、周囲もであることはほぼ間違いない事実です。
親が昼夜関係なく働かされて子どもの傍にいられなかったり、仕事をなくし経済的に困れば、当然心が安定せず成績も上がらない。

この明白な事実に目を瞑り、子どもやその親だけに「責任」を押し付けあまつさえ、子どもが人間として育つために必要な、「子どもの時間」を奪いよりよい生育環境(自然・社会・学校)を破壊しておいてなにおかいわんや!!!です。

青少年関連施設、国際子ども図書館など、教育的な社会的整備を破壊しながら「教育改革」を口にする神経が理解できません。
やっていることは間違いなく「教育改悪」以外の何者でもないのですから。

ってなぜこんなことを障がいにかんする文章の中で言うか。
それは根拠のない「学力の一定の範囲以外の子ども達の疎外」が学校現場で進んでいる現実があるからです。

学校が全国統一テストで当然そうなることは明白にわかっていたことです。ある県ではすでに県単位で統一テストが行なわれてきたのですが、そこでおこってきたいろいろな許しがたい行為が今全国的になっています。

学力は人間に必要とされるもののほんの一部分。
それよりもっと大切なことがいっぱいあるということを再認識する必要があります。急務といっていいことです。

差別を作り出し、環境を悪くし、いったい誰が幸せになるというのでしょう?
一部の企業を潤し、そのあまりで得をする人もいるのかもしれませんが、そのプラスの何千万倍もの害を社会に与えていることを考えれば何をしなければならないかは明白です。

子どもたちを壊し続けることを私たちは許してはなりません。
それは私たちの未来を壊す行為でもあるからです。