ケーキを分けるべきか、また分ける場合、どう分けるべきか?

【復習記事】
「ケーキを全部食べるのと半分食べるのとどっちが大きい?」
ケーキは本当に皆で分けたほうが良いのだろうか?

今まで私はアプリオリにケーキは皆で分けるべきであるとし、
その分け方を問題にしてきました。
しかし、独り占めにすると言う選択肢もある。
ケーキを政治的に分けるべきか否か、
分ける場合、どのように分けるべきかは
どのような善き社会を目指すのかによるのでしょう。
では、どのような考え方があるのか考えてみましょう。
まずケーキを分けない派ですが、これには強硬派と穏健派があります。

1)何が何でもケーキを分けない派
ケーキを手にできるかどうかはその人の運、
すなわちいつの時代にどこの国でどのような家庭で生まれ、
そしてどのような能力を持っているのかも含めた能力による。
ただケーキを手に入れるためのゲームのルールさえ決めれば良いと言う立場。
これは言うまでもなく市場中心主義です。
きつい世界ですわ。

2)ハンデ付ケーキを分けない派
可能な限り運を排除して、その人の純粋な能力でもって
ケーキ争奪戦を戦うべきだとして、たまたま有利な立場に生まれた人には
ハンデをつけましょうと言う立場。
これは機会の平等を保障した純粋な能力主義です。
しかし、純粋な能力主義なんてありえるんだろうか・・・
それにやはり負け続ける人はいるでしょう。

次はケーキを分ける派だけど、これもふたつに分けられます。

3)参加費はあげましょう派
基本的には1)に近いのかなぁ・・・
でも、負けた人にも参加費として次の争奪戦に参加できるぐらいの
体力を維持できる程度のケーキはあげますよと言う立場かな?
これは結果の平等ですね。
でも、争奪戦に参加しないでケーキだけ食べる人が出てきますね。
いわゆるモラル・ハザードです。

4)皆が食べることができるように教育しましょう派
弱い人が不利な立場にいるのは個人の問題ではなく、
社会の問題であるとして、皆が公正に競争できるような環境を
きっちりと作りましょうと言う立場かな?
これでも負ける人はいるので、その人が勝つための方策を考えることに
なりますね。
ルールがたびたび変更されて同じ人が勝ったり負けたりします。
そうならば、最初から皆に分けろってね。
でも、皆に配分するだけの量はない・・・

日本は今、1)や2)の社会を目指しているようですね。
とするとケーキを食べることができる人が偏り、
常にケーキを食べることができる人と食べることのできない人が
出てきてしまいます。

私は個人的には4)の立場なんですけど、
それでもやはり犠牲になってもらう人が必要になりますね。
ただその犠牲になる人は偶然でないといけないと思っています。
共同体の皆がいつ自分が犠牲者になるかも知れないという
一体感を持った状況でないと秩序は維持できないでしょうからね。

話は随分それますが、神戸に阪神・淡路大震災の記念館として
「人と防災未来センター」ってあるのだけど、
ここを見学すると今、自分が生きているのは偶然としか言いようがないことが実感できます。
あの瓦礫の下敷きになったのは彼である必然はなく、
私であっても良かったんだと本当に思ってしまいます。
そのような思いが連帯感を生み出すのだろうと思います。
たぶん、昔はそのような状況が多かったのでしょうね。

神戸に行ったときは是非「人と防災未来センター」に行くことをお勧めします。