ライター、弾丸ひろこです(%バイク%)
前回、「障害児・者」の名称を変えるキャンペーンをはりますと宣言しましたが、ちょっとお待ちください。
どのように展開するか、この東京こどもセンターの船長さんと思案中です。どうせならより効果的に展開したいのです。
今年は、特別支援教育法元年で、繰り返しますが、「養護学校」が「特別支援学校」へと名称が変わるといった動きがあるので、「障害児・者」の名称についても、果たしてこれで良いのか、改めて考えるチャンスだと思っています。
また、言葉を変えることについては、普段そのことに興味を持っていない人も関心を持ちやすいですよね。
例えば、古くは、トルコ風呂がソープランドに変わったとき。そっか〜、トルコの方たちそんな風に思ってたんだ〜って思いませんでした?改めて、風俗産業のことを考えてみたりね・・・。
つまり、言葉をめぐる議論を通して、より多くの方を巻き込んで今の日本の「障害児・者」の現状を、改めて俯瞰してみていきながら、問題提起していきたいという想いもあるのです。
有効なキャンペーン展開方法について、どなたか良いお知恵をください。
ところで、言葉というものには「言霊」があるとも言われますが、あなどれない大きな力を持っています。私は編集という言葉にかかわる仕事をしていますが、言葉は意外に潜在意識に訴えるパワーが強いと思います。
前回のブログで、「座敷牢」という言葉を連発しましたが、書いているうちに具合が悪くなってしまいました。特に漢字は、一文字だけでもいろいろなイメージを想起させますよね。
「障害児」「障害者」も同じだと思います。単に心身に「差し障りと害」があるという事実以外の、様々なネガティブなイメージを想起させるじゃないですか。
阿部前首相が辞職表明をした時、「わたしがこのまま政局にいると障害になる」という表現を使いました。
これを簡単に言うと「わたしがこのまま政局にいると邪魔になる」といったことですよね。
「障害者」という言葉には、本来その意味するところ意外に、世の邪魔者、お荷物、迷惑な存在といったネガティブなイメージを、どうしても潜在的に放ってしまうと思うのです。
他のブロガーの方も書いていますが、確かに今、日本でも「障害児・者」の進路選択が、決して十分ではないけれど多様になりつつあります。
しかし、ウチの特別支援学校の高等部でもよく聞かれることですが、せっかく民間に就職できる可能性があるのに、親の方が「とんでもない、ウチの子は無理です。ご迷惑をおかけしますから、作業所でいいです」とあえて福祉的ケアを選ばせてしまう。そういうケースが多々あります。
東京都では、今年度から副籍制度というシステムがスタートしています。これは、特別支援学校の児童・生徒が、近隣の学校に副次的に籍を置き、まずは行事などにおける交流から初めて、最終的には参加できる授業には参加していくというという画期的なものです。
しかし、どの特別支援学校も、副籍を希望するのはだいたい半数以下。
希望しない理由は、中学部などは、地域の小学校の特別支援教室出身の生徒が多く、「もう地域の学校とのパイプはあるから」というのもありますが、やはり「大変だから」「うちの子には無理」といった理由が大半です。(←副籍の状況は後日詳しく報告します!)
そういえば、私も「障害」のあるわが子を公立保育園に入れた時、また地域の小学校の学童クラブに入れたとき、必ず身内からこう言われました。
「やめなさいよ。お荷物にならない?」(←お姑さんです。決して悪気はないのです。極めて善良な、普通の日本人です。)
いくら新しい、進んだシステムができても、当事者やその家族が、当事者を「世のお荷物」として捉える意識が少しでもある以上、事態は変わりません。
そのように捉えてしまう理由は多々ありますが、そのひとつに、わが子をあるいは自分自身を、「障害児」「障害者」と日々呼び続けること、あるいは呼ばれ続けることが大きいのではないかと思います。
「障害児」「障害者」と呼び続けているうちに、その潜在意識にどんどんネガティブなものが溜まっていく・・・。
それをはねのけて「わが子の障害は個性だ!」「障害は個性だ!」と言い放てる人はよほど精神的に強い人です。
(意外に気弱な)弾丸ひろこは、ヨダレをたらしながら日々一生懸命生きているわが子を、「障害児」と呼びきることがどうしてもできないし、する必要もないと思っています。
次回は、他のブロガーの方も触れていましたが、「チャレンジド」「ハッピー・チャイルド」という一部で流布されている言葉について語りたいと思います。
「(%音符1%)あぁ、こぉ〜のままぁ〜、何時間でもぉ〜、書いていたいけどぉ〜(%音符2%)」
ご精読ありがとうございました!!(%ニコ女%)