心技体について、
「心と技と体」の3つではなく、
「心→技→体」という、無から有を生み出す一連の過程を示しているのではないか?
「無」は、なにも無いということではなく、全てのものを内在する状態。
「有」は、原因から生み出された結果。五感で感じ取れるもの。
よって、
「心を鍛える」「体を鍛える」などのように、本来一連であるものを分けて理解し、それぞれを向上させていくという考え方は意味が無いように思える。
「心→技→体」
とするならば、
「心」の状態を測るには、結果である「体」を観察し、「心」を修正すること。
「体」そのものを直接鍛えることはできない。
それは結果であるから。
「技」とは、「心」から「体」への筋道を指すのではないか。
「技」の向上は、
その筋道の数と段階をいくつも習得していくことではないのか。