2月18日に開催されたイベント『Com~ともに』で出演してくださったパネリストの方々から感想いただきました。
それぞれの思い思いの感想を語っていただいていますので、是非イベントに参加できなかった人もお読みください♪
そしてパネリストの皆様本当にありがとうございました。
■小吹岳志氏 (フェアトレード・サマサマ 事務局長)
<シンポジウムを終えての感想>
「フェアトレードのあるべき姿」を論ずるだけなら、いくらでも言えると思います。
難しいのは、実践しながら「あるべき姿」に少しでも近づけて行くこと。
金曜日の雨の夜という悪条件にもかかわらず、150人を超える若い人達が集まったことに感動しています。
その人達が、新しい、自分達ができることに、まず一歩踏み出してくれることを期待します。
■辻隆夫氏 (共和食品株式会社)
<コーヒーを取り扱う民間企業のフェアートレードに対する思い>
発展途上国であるコーヒー生豆生産国を実際に訪問して、その中から「産地の人々に対する思いやり」を構築し、企業の理念として取り組んできました。
特にその思いはコーヒー生豆生産国が対象であり、かつ特定の国や地域に思い入れすること無く、平等に取り組みが重要であると企業人としては認識しています。
その一つの取り組みがフェアートレードの商品化であり、そのPRです。
したがって、企業にとっては、それが全てでは有りませんし、それしか無いと言うことも有りません。
皆さんはどうお感じになられたかは、分かりませんが、民間企業のフェアートレードに対する取り組みは、一つのカテゴリーとして取り組む場合が多くその事を一般消費者がどう理解されるかが我々の一番知りたいところです。
つまりフェアートレード運動の中でラベル運動や、その他の活動に対する分かりやすさを追求していきたいのです。
こういった活動を紹介できる機会は少ない中で、民間企業として紹介いただけた事は感謝申し上げます。
内容的には、紹介、PRあるいは、質問に留めていただきたかったのが正直な感想です。
FTSNさんの今後のご活躍を期待いたします。
■ウスビ・サコ氏(マリ共和国出身)
Comともにーのシンポジウムでは、「フェア」トレード商品の生産国出身者という立場で意見を述べさせて頂きました。
私が生活している消費社会、日本の子どもたちの「モノ②」に対する態度、生活保障あるいは「特権」を見るたびに、この地球の将来を不安に感じてしまいます。
もう一方で、マリに戻るたびに、生産している「もの①」がどこに行ってどのように消費されるのかも分からずに一生懸命働く人たち、自分たちのさらなる発展(経済的)をさえあきらめている人たちの姿を見ると胸が熱くなります。
今回のシンポジウムでは、オーディエンス・パネリスト・主催者共に上記のジレンマに対して、意識の高さを感じさせられました。
現代社会の様々な「矛盾=齟齬」を変える方法論は見つかっていなくても、何らかの道筋が見えてきているのではないか。
皆で、今後も、「フェア」ということに疑問を持ちながらもトレードの面のみならず、社会のあり方についても様々な形で活動を続けて頂きたく思います。
一緒にアクションを起こしたいですね!
「流行の毒に気を付けましょう」。
■鶴田格氏 (近畿大学農学部教員)
<フェアトレードと人類の未来>
今回フェアトレードのイベントに参加させていただき、思いのほか多くの若い人が興味をもっていることを知って、驚き、また大変心強く思った。
ただ、イベントのなかで強調されていたように、フェアトレードが「お金持ちの先進国の消費者が、貧しい途上国の人々を助ける」ための手段としてだけ考えられているとすれば、それには少し異論がある。
今のフェアトレードの運動に文句をつけ、冷水を浴びせたいがために、そんなことを言っているのではない。
逆である。むしろ、私の考えでは、フェアトレードはもっと大きな可能性と人類史的な意義をもっている。
上記の規定は、その可能性を少し狭くとらえすぎているのではないか、と思われるのである。
その大風呂敷な話に進む前に、まず、多くの人がフェアトレードの主たる目的ととらえているであろう「先進国の消費者による途上国の生産者の支援」という一般的な図式について検討するところから始めたい。
私は、この目的それ自体は全く正しいと思う。
ただ気になるのは、この目的の背後に暗黙にひそんでいるかもしれない諸前提のことである。つまり、この図式は、南北関係を固定的なものとみて「私たち(日本人や欧米人)はこれからも先進国という安泰な地位を保ち続けるだろう」とする仮定の上に成り立っているのではないだろうか。
もし、私たち先進国の消費者が、自分の身は安全な場所においといて、恵まれない劣位の者に救いの手を差しのべる、という慈善的な態度に終始しているとするならば、そこに一抹のウサンくささを感じとる人がいてもおかしくない。
おそらく、パネリストの一人サコさん(西アフリカ出身)が苦言を呈したのも、「公正」の名のもとになにか偽善的な行為が行われる可能性を指摘したかったのだろうと思う。
しかし私は、サコさんとはまた違った理由から、上記の図式に少し疑問を持っている。
それは、私たち先進国の消費者は、本当に(治安や経済の面からみて)安全、安泰なのだろうか、ということである。
2001年にアメリカでおきた無差別テロ事件や、2004年のスペインの列車爆破事件は、ますます拡大する貧富の差が、どのような形で突発的な暴力に結びつくのかを世界に示した。
経済大国日本に暮らす私たちにとって、これまでは知らんふりを決めこむことができた南北問題も、他人事ではすまされなくなった。
それを放置しておけば、次は私たちが標的になるかもしれないのである。
フェアトレードは、だから、貧しい途上国を救うためだけにあるのではない。
私たちの身の安全を保障するためにも、必要なのである。
フェアトレードで取引される農産物には無農薬のものが多いことも、この私たち自身の安全の確保、ということにかかわっている。
また、そもそも私たちの住む日本が、いつまでも先進国のままであり続けるという保障はどこにもない。
経済的余裕がなくなれば、通常よりかなり高い値段で商品を販売することを前提としているフェアトレードの運動などは、急速にしぼんでいくことも予測される。
お金があるときは、フェアトレードをやるけれど、なくなったらやめる、というのでは、何のための運動なのか。
フェアトレードは単なる慈善事業ではなく、「先進国—途上国」という関係や、環境負荷の大きい既存の生産・消費のシステム、さらにはそれらを生み出してきた資本制経済そのものを問い直す運動でなければならない所以である。
資本制経済とは、簡単にいえば、金儲け(利潤獲得)以外のすべての考慮を二次的なものにするようなシステムに、誰もが否応なしに巻き込まれていく運動である。
この経済システムのゆえに、私たちはとても豊かになった。
ところが一方で、大量生産大量消費のしくみが世界規模で形作られ、それがどんどん地球環境の悪化を招いてしまった。
同時に、グローバル化する経済に巻き込まれていく過程で一部途上国での労働条件は劣悪化し、南北の経済格差はますます広がりつつあると言われている。
私たちの物質的に豊かな生活は、こうした世界規模での(環境および人間への)収奪システムの上に成り立っている。
こうしたシステムをこれ以上続けていくことができない理由、テロリズムよりもっと深刻な理由は、もちろん地球環境の悪化である。
このイベントが行われる2日前に地球温暖化に関する京都議定書が発効した。
しかし、今のところ二酸化炭素排出量は増えこそすれ、減る見込みは少しもなく、温室効果ガス抑制にかかわる、その控えめな数値目標でさえ、達成することは難しいと言われている。
科学者たちの予測が正しければ、近い将来、天候の異変とそれに伴う食料危機が起こる可能性が高い。
そうなれば、もう開発援助どころではない。
主権国家は、いざとなれば武力を用いてでも、希少な資源を確保し、自国民の利益を守ろうとするだろう。
テロリズムよりもっとひどい事態、戦争が起こるかもしれない。
たとえ深刻な環境の悪化が起こらなくても、資本制経済のグローバル化そのものが、戦争につながりかねない要素を持っている。
それは、世界恐慌に対する反動としてファシズム国家が台頭し、第二次世界大戦を引き起こした経緯をみればよくわかる。
世界恐慌の直前の時代というのは、ちょうど今のように経済自由化が世界規模で急激に進み各地域の経済を混乱に陥れた時代だったのである。
「いったい公正とは何なのか」というサコさんの問いかけは、重く受け止めなければならないし、私もこれからじっくりと考えていくつもりではある。
しかし、率直にいって、「もうそんなことを言っている場合ではないのではないか」という気も一方でする。
私たちが、生産者への報奨金を100円にするのと150円にするのとではどちらが公正かを議論している間にも、地球の温暖化は刻々と進み、テロリズムを格好の口実として諸国家は戦争への準備を着々と進めつつある。
冒頭で、私は、フェアトレードは、単なる開発援助という域を越えた、もっと大きな可能性と人類史的意義を持っている、と述べた。
それは、一言で言えば、今世界を席巻している資本制経済に代わる、別の経済システム(英語風に言えばオルタナティブalternativeな経済システム)を生み出す可能性である。
貧困はもちろんのこと、環境悪化、戦争など全ての問題の根本には経済の問題がある。
それを解決したければ、経済のシステムを変えるしかない。
これまでは(そして今でも)、資本制経済がもたらす諸矛盾は国家が解決できる、とする考え方が支配的だった。
しかし社会主義国家の壮大な実験は失敗におわり、また日本や欧米の「福祉国家」も巨額の財政赤字を抱えて、普通なら破産していてもおかしくない状態である。
これ以上国家に頼ることができないのは明白であり、また国家に過剰な期待をすることは、戦争へ向けての第一歩でもある。
先進国と途上国の市民が協力して草の根で行うフェアトレードは、国家の力に頼ることなしに、経済システムを変革していくための、唯一ではないにしても、もっとも有力な方法のひとつである。
原理的に考えて、広い意味でフェアトレード的なやり方を広めていくしか、環境の悪化と戦争を防ぐ道、つまり人類が生きのびていく道はないであろう。
だから、フェアトレードは、単に途上国の貧困問題を解決したり私たちの消費生活のあり方を反省したりするための手段ではなく、そこには人類の存亡がかかっていると言っていいのである。「人類の存亡」というのがウサンくさく聞こえるなら、「この私やあなたの存亡」と言いかえてもよい。
今後環境の危機や戦争が起こるとすれば、それが局地的な現象にとどまることは決してありえず、むしろ地球規模の破局につながるだろうから、この二つは同じことである。
以上、たぶん多くの人にとっては既に当たり前のことを、長々と書き連ねてきた。
こうしたイベントを通して、一人でも多くの人がフェアトレードに興味を持ち、実践してくれることを望む。