3月31日、万理夢が発行されました。
今回は、私の原稿が載せられ、これは大変光栄なことに間違いありません!
図書カードもらえてなおさら嬉しい限りです。

では皆さん、私が考えている、「女性の人権」に関して読んでくれませんか。

女性である前に、一人の人間として

私は女性だ。生まれた瞬間からそう決められてしまった。私自身が選んで生まれたわけでもないのに、さらに女性っていうだけで差別を受けるって悔しい。
より悲しいのは、子供から経験してきた性差別を私は問題として認識できず育ってきたことだ。例えば、お正月と中秋は韓国で一年中一番盛大な祝日だが、母にとっては楽しめる日ではなかった。二日前からちゃんと寝ず、休まずにお節料理や祭祀の準備ばかりする。これを一人で何十年もやってきた。でも、どんなに疲れる作業をしても、女性というだけで祖神の前で伏し拝むのは許されない。成長して高校生になってからは、テレビを見ながらお喋りばかりしている男性へ漠然とした不公平を感じた。

女性問題はなぜ消えないのか
「ショッキング・ファミリー」。この間、韓国女性監督のドキュメンタリー映画を観る機会があった。韓国の夫主義社会の中の女性を描いていた。同じ韓国人として普通に共感できる内容だったが、映画を観た日本人としては、とても新鮮だったようだ。しかし、日本で撮影している監督はこう言う。
「表面的には良くなった気がするが、日本女性の問題は韓国とあまり変わらない」
今まで、日本女性の生活を羨ましいと思っていた私にとっては意外な発言であった。
私は、日本の「表面的」なことしかみていなかったわけか。彼女は問題の範囲を広げ、韓国、日本、またアジア女性の人権問題を取り扱おうとしている。現場を走り回り、直接身体で受け入れている彼女の話には説得力があった。
そうすると、韓国や日本の女性人権の酷さを比較するのは、意味がない。先進国のヨーロッパやアメリカでも女性問題は消えずに蔓延している。その程度が軽いだけだ。なぜ、消えないのか。いや、消えることが果たして出来るのか。

現在の女性問題の限界
残念ながら、私の答えはNOだ。
単に言うと、男女平等っていうのは、結局、男性主義の中の男女平等にすぎない。
私はフェミニストではない。フェミニズムとは、男性主義社会と不可分の関係の産物で、もし今の世界が母系社会だったら存在しなかっただろう。また、女性の考えているフェミニズムは男のそれとは違うと思う。男の考えているフェミニズムでは、今の既得権をなくすまで女性の権利を考えてくれるかが疑問だ。
ある女性政治家が、女性であるからこそ、リサイクルなどの環境問題に気づいて問題化することができると言った記事を読んだことがある。間違いない話だが、私はその「女性だからこそ」になぜか引っかかる。女性が自ら、男性や女性の役割を付けている。
これらが今の女性人権の解決への限界ではないか。
上記のように私は女性問題に関して否定的に答えたが、その考え方や解決方法を別の観点でみることによって方法はあるかもしれない。

男性の積極な解決を図る
女性問題は、男性と離れて考えられない。女性たちだけがいくら頑張っても、限界はあるたろう。だからこれからは男性自信が女性問題への認識を強め、またその問題の解決方案を女性と一緒に講究してほしい。
その認識というのは、男性が女性への権利を与える、また女性が権利を獲得することでもなく、人間としての権利を取り戻すのであること。これは、性的区別や地位、国籍などすべての社会性を排除した、ただ裸の人間としての権利、つまり人間の尊厳だ。

二分法的な考え方を越え
「女性の人権」と「人権」の関係は、従属的な関係に置かれている。自然に「女性の人権」は「人権」より見下ろされることになり、女性問題が解決できるにつれて人権問題も解決できると思われている。
でも、私は「女性人権」と「人権」は一緒に考えなきゃならないと言いたい。
そのためには女性問題自体への本質的な接近が必要だが、その根底には女性と男性という二分法的な性差観点がある。
今までの女性と男性という二分法的な考えだけでは、これからのもっと複雑な社会問題を解決するのに限界があるわけだ。
例えば、ほとんどの人が看過しているのは、女性と男性の範疇に置かれてない存在、両性具有や中性。女性問題の前提から、彼らのことは念頭してない。女性でも男性でもない、また女性であり男性でもある彼らの問題は別の問題にするわけか。
男女老少・国籍・セクシャリティーなどに関係なく、人間としての義務と権利は同じだ。
私を女性ではなく、単に一人の人間として認めてくれる人に出会いたい。また、そんな社会が一刻も早くやってくるよう、ただのユートピアで終わらせずに実現できるように頑張る。(朴)