ポーランドの自然映画祭をのぞいてきました (3)

EARTH VISION 地球環境映像祭 中央ヨーロッパ特派員の華沙太郎です。
前回の書き込みから随分間延びしてしまい申し訳ありません。約束どおり、この映画祭名の冠にもなっているヴウォジミェシュ・プハルスキ(Włodzimierz Puchalski)という人物について紹介しましょう。
今はよい時代です。インターネットですぐに彼についての情報を得ることができますね。
ウィキペディア・ポーランド語版の記事を簡単に訳してみましょう。
http://pl.wikipedia.org/wiki/W%C5%82odzimierz_Puchalski

ヴウォジミェシュ・プハルスキ − 1908年3月6日、ルヴフ(現ウクライナ・リヴィウ)生まれ、1979年1月19日南極海キング・ジョージ島にて死去 − ポーランドの動物学者、写真家、自然環境系映画監督。自然環境を記録することを「流血なきハンティング “bloodless hunt”」(ポーランド語原文 “bezkrwawych łowów” )と世界で最初に言い表した人物。

父親の写真好きが伝染して幼少期から写真に興味を持つ。父親が動物や風景写真をよく撮る人であった。今こそ「流血なきハンティング」のフレーズで知られているが、実際は13歳の時からハンティングを始めていた。14歳(1923年当時!!)で最初の自分専用のカメラを祖父からもらっている。
1931年(現ウクライナ・リヴィウの)ルヴフ工科大学入学、農林学を修める。
1933から36年まで、ルヴフ工科大学光化学講座のヴィトルト・ロメル教授の助手を務める。ロメル教授とは共同して自然科学映画を制作していた。そして自身の最初の自然科学映画に「流血なきハンティング」と名づける。
1936年にポーランドで初めてとなる、自然とハンティングをテーマにした個展を開いた。
1937年、ベルリンで開かれた「ハンティング・オリンピック」にて、森の中の野豚を撮影した写真に対して金メダルを受賞。
1937年から1939年までワルシャワ農業大学解剖学講座のヴォドニツキ教授の助手を務める。ここでは大学の授業中での映画とスライド写真の利用法について研究していた。その期間にポーランド代表として鳥類学のヨーロッパ最大の拠点モスクワに二度行っている。一般にも有名になり、何度も当時のモシチツキ大統領に接見を許された(特に1938年に大統領が催し、ナチス・ドイツのNo.2だったヘルマン・ゲーリングも参加したハンティングでも写真を撮っている)。そしてまた国内外の雑誌等から自然写真の依頼を多く受ける。1939年までに6度もポーランド国内のハンティング写真コンクールで一等を勝ち取る。

1939年に始まったナチス・ドイツのポーランド侵攻に対して積極的に戦争に参加したが、その後第二次世界大戦中は森林管理人としてカルパチア山脈南東部で勤務する。終戦・解放後は(ワルシャワ農業大学)遺伝学講座で働き始める。
1946年にクラクフ映像研究所を組織する。
1949年から(クラクフの)ヤギエウォ大学畜産学研究所に勤務、研究所内に動物記録映像部門を創設する。
1956年からウゥチの教育映像プロダクションWFOにカメラマン兼監督として勤務。
1957年と58年の二度、ノルウェーのスピッツバーゲン島への探査旅行に参加。
1978年、ポーランド科学アカデミーが組織した南極探査に参加。南極海キング・ジョージ島での撮影中に息を引取る。遺体はその地に埋葬された。
実は色盲で、ほぼ全ての映画・写真は白黒で制作された。唯一例外のカラー映像は最後の南極探査時の物。プハルスキの写真の豊富なコレクションは(クラクフ近郊の)ニエポウォミツァ城内で鑑賞することができる。

このように、ヴウォジミェシュ・プハルスキという人物はまさにポーランドの自然環境系の映像作家の先駆者なのですが… この映画祭を離れて一般の人々に尋ねた感触では、現代のポーランド人の40代以下でこの名を知る人はほとんどいないようです。残念ですね。

1956年のところでWFOの名前が出ました。そう、このWFOこそこの映画祭の主催団体なのです。プハルスキの遺志を継ぐ形で現在も精力的に活動しています。
http://www.wfo.com.pl/start.php

次回は、WFOのもう一人の立役者、カロル・マルチャク(Karol Marczak)という人物を紹介しましょう。

写真はこの映画祭で頂いた、他の映画祭のパンフレットに掲載されていた写真です。